ここは浅瀬です。

主にうわ言を述べる人のうわ言用ブログ

たかが1500gの希望:戦極凌馬に寄せて

わたしの愛した科学者が死んだのは、8月の終わりのよく晴れた日曜の朝のことだった。

アスファルトの暑さを、雲ひとつない空の眩しさを覚えている。涙は一つも出なくて、なぜか無性に笑えて仕方がなかった、なんて事も。
プロフェッサー、戦極凌馬。
ある天才の死の季節に寄せる、これは取るに足らないたわごとだ。
 
マッドサイエンティスト枠として一緒くたに扱われがちだけれども、例えば檀黎斗のようなポジションには、彼は決して着くことがない。
黎斗が「神」になり得るのは彼が諸悪の根源であるからである。作った側に打倒できない問題はない。マッチポンプの災害的天才。
勿論それだって飛び抜けた才能と鉄の信念なしには決してたどり着けない境地であるし、それは天才に一歩及ばず、研究の盗作という悪意の形で問題を引き起こした蛮野博士にもまた決して開かれない場所である。
なのでこの辺りを雑にまとめてマッドサイエンティストと括る層のことは本当に分からない。今すぐSNSを閉じて作品をちゃんと見た方がいい、絶対。天才も多種多様だし、それが面白いので勿体無い。
 
鎧武という作品の大前提、それは外からの侵略=理由なき悪意が諸問題の根源であるということだ。
マッチポンプ型は神にすらなれるが、理由なき悪意の世界ではどのような答えを出そうとも神には至らない。100点満点が不可能だからだ。
突然日曜の朝から外れるが、アベンジャーズシビルウォーを見てほしい。
宇宙人の侵略に晒されたニューヨークやロンドンを守って戦ったヒーローが、その戦闘に巻き込まれて死んだ数十人の死を責められる。そんな馬鹿な、それを責めるのか、と思うほどの苛烈な戦いだった。寧ろよくそれだけで済んだものだ、人数の少なさに驚く気持ちさえある。
それでもその戦いで大切な人を亡くした人々には、関係がないのだろう。
自ら種を蒔き、綿密に手を掛けて育てた黎斗でさえ、その過程で決して取り戻せない死を生み出した。
まして外的侵略生物、高い感染性と神出鬼没さを誇る怪物の森ヘルヘイム。これに相対する時点で大円団の救済エンドはご都合主義の奇跡でもない限り不可能である。
ゾンビ映画ばりに絶望的なこの状況は、しかしたった1人にひっくり返される。
ご都合主義の奇跡によって?
その奇跡の始まりは、しかしライダーシステムの誕生-戦極ドライバーに端を発している。
 
鎧武は弱者の物語である、と思う。
徹底的に強者と殴り合うことのないヒーローものだ。モルモットのように力を与えられたダンスチーム、それを応援したかと思えばあっさりと手のひらを返す街の人々、それを管理するユグドラシルは一見強者のようであるが、世界を覆う組織のほんの一端に過ぎない。
大企業でありながら、最重要拠点となりうる沢芽市をまだ十分青二才のうちだろう呉島貴虎1人に丸投げしているユグドラシルの思惑を、犠牲の山羊だとわたしは思った。
呉島家の長男だ、たとえ何が起きても責任は押し付けられる。命すら危険な場所に出てきたがらなかった無数の手によって祭り上げられた張りぼての神様だ。ましてやその率いる組織など、トカゲの尻尾でしかなかっただろう。
強者がいたならばもっと話はシンプルだった。ユグドラシルがヘルヘイムをダシに世界を手に入れようとしているなら、もしくはヘルヘイムの奥に悪意を持った王がいたならば。誰かを殴り倒せば解決する話では、しかしなかった。
 
1/7の救済を許せないと叫ぶ、絋汰の感情は分かる。けれど許さないならどうだというのか。その時点で絋汰に7/7を救済する手段などなかったのに。
許さないと、叫ぶことは簡単だ。
けれど、10億。10億の救済。神に決してなれない人の手で成すには十分とんでもない。
映画ディープインパクトアメリカが彗星の衝突から国民を守るために用意したシェルターは100万人を収容できた。100万/3億。大体0.3パーセント。世界規模なら一体どこまでこのパーセンテージが下がるのか、そう1/7の途方もなさを噛みしめる。
後に知ることとなったユグドラシルの養護施設を、戦極凌馬の生まれ出た場所を見た時に、絋汰と凌馬の間の断絶を思って仄暗い気持ちになった。選別され、おそらく多くが死んだだろ子供たちの地獄。誰も6/7を救わなかった。
なぜ許せないのか、もしかすると凌馬には分からなかったのではないのだろうか。
 
沢芽市民がチームバロンに投げかけた台詞がわたしは鎧武の軋轢の根源であると思っている。
「私たちの平和な街を返して!」
おぞましい。その台詞を戒斗に向けることが、おぞましい。
今の沢芽が作られるにあたり、実家の工場を失い、父が心を壊し、母がおそらく服薬自殺、そして庭で首を吊った父を見つけた時戒斗は小学生だった。
その責任は市民にない-とはいえ自分を弱者と信じる者は自分を害するものにどこまでも無自覚に残酷である。大衆性という傲慢。何を踏みつぶした上に立っているかも自覚しない。
理由なき悪意はヘルヘイムを説明する概念であるが、「大衆」もまた理由なき悪意である。
行き詰まりの世界で、戒斗はきっとヒーローになろうとした。彼の目指した強者とは、つまりヒーローだ。
 
もう一度アベンジャーズの話をしよう。
絶え間ない宇宙からの侵略に、彼等ヒーローはいつまで立ち向かえばいいのだろう?人は衰え、いつか死ぬ。不変のまま人を守るなどそんなものは神だ。アイアンマンことトニー・スターク(彼も天才科学者である)はPTSDで苦しんだ果てに自立型ヒーローマシンを作ってみたりもしたのだが、その顛末はアベンジャーズエイジオブウルトロンを見ていただきたい。
ヒーローに全ての責任を吹っかける行為は、非常に脆いのだ。彼等は神ではないのだから。
戒斗の選んだ道は修羅の道行きであり、それはいつしか道を踏み違えていく。
一方、凌馬は「神様」を作ろうとした。
呉島貴虎、彼も望んでヒーローたらんとした男である。
正直絶望的に噛み合わない2人だっただろう。貴虎はノブレスオブリージュを標榜している。世界に対して負った義務。ヒーローを目指すが、それは大衆のための、大衆に消費されるヒーローである。たった1人のための神様になどなってくれる男ではない。
一方で、貴虎の倫理観は真っ当である。1/7の選択はあまりに重い、だから6/7をなぜ救えない、という顔をしてしまう。貴虎もまた凌馬に、正確に言うならば凌馬の天才性に神を望んでいる。ご都合主義のハッピーエンドさえ作れるのではないかと。
研究室でかつて2人は出会ったけれど、そこから全てが始まったのだけれど、結局のところ互いに勝手な偶像を見ているばかりで、本当に出会ったことなど一度もなかったのかもしれない。
 
それでもドライバーは作られ、世に放たれた。
 
夏の映画を見ていて思ったのは、これは新世代の兵器だ、ということだ。
使い方を間違えればただの火種。時に人を破滅させ、そして結局世界を救った装置。
鎧武が大団円を迎えるために必要だったのはもしかしたら非常にシンプルなことだった。分かり合い、手を取り合い、誰もがヒーローになること。
10億が力を手にするには、人類全てが、その意志が進化-変身することが絶対条件だった。そうでなくてはフェムシンムの二の舞だろうし、もしかすればその10億が手を取り合って戦い、ドライバーを共有することで70億が生き延びることすらできたのではないか。
残念ながらそれは叶わない夢だった。
ヘルヘイムの出現は進化した種への試練だったのだろうか。だとすれば鎧武の結末は長い保留マークにすぎない。
いつか、ヘルヘイムはまた地球に現れるかもしれない。神となった絋汰はいつまで絋汰でいられるか、その保証などどこにもないのだから。
(同じように不死の道に踏み込んだ剣崎真という男の道行きを、是非読んでいただきたい。ノベライズ仮面ライダー剣、とてもお勧めです)
いつか再び試練のその日が来るまでに、人類は進化をしなければならない。最終回で、奇しくも光実が一歩踏み出したそのように。
 
人は進化の際に、牙も毒も速く走る足も捨てた。代わりに得たその特性は知性である。
ヘルヘイムという巨大な悪意を前に、力を手にした人々がどう立ち向かおうとしたかは千差万別。けれどその立ち向かう力が生まれなければ、あの日曜朝は一年間ただ飲み込まれていく世界を映すゾンビ映画にしかならなかったのだ。
たった一個体の脳髄が、絶望的なワンサイドゲームをひっくり返した。
立ち向かうことのできる領域に、人類を押し出した。
人類が原始的な力を捨てて選んだ進化の最先端。知性による革命を、わたしは心底眩しく、輝かしく思う。
 
8月31日の朝、戦極凌馬はコンクリートの地面に向けて落ちていった。
抵抗も、なかった。ただ目を閉じて、全てを投げ出すように、投げ出されていった。
一度は手にした黄金の果実を凌馬が使わなかったのは、彼らしい、と思う。
都合のいい奇跡なんかは、信用ならない。降って湧いた僥倖はいつ裏切るかも分からないものだ。ガラスケースの果実を解析して、理解して、完全に制御して、もしその先があったとするならば。
戦極ドライバーのコンセプトは生物の規範を大きく書き換える。遠い未来を描いたSFだって基本は経口摂食だ、それは動物という種の根幹であり、それゆえに人類がどこまで進化しても動物的な側面として足を引っ張るとも言える。ドライバーからヘルヘイムの実を摂取し、食さえも必要としなくなるという、あまりに思いきった革新。
たかだか1500g、人体の2パーセントの脳髄が見せる無限の可能性を信じていたかった。
 
希望が砕けた朝が来る。

それは希望の花(マリーゴールド雑感)

※現地は週末までお預けです

 
映画館いっぱいに広がる不穏な音。なんとなく心臓が逸るような、背筋がざわざわするようなあの音を何と評したらいいのか分からなくて、ただ不穏だ、と思った。
マリーゴールドは不穏だった。
あらかじめLILIUMで知った名前、その名前に結びついたキャスト、あらかじめ予想された悲劇。
現在存在する作品の中で私はLILIUMが一番恐ろしいのだ。
 
なので思ったのです。
これは希望の物語だと。
 
LILIUMにおけるマリーゴールドという少女のことを私はかなり苦手だった。理解できなかったからだ。
まるで一滴の毒のように楽園を壊す不穏分子。マリーゴールドはスノウがリリーを不幸にすると言うけれど、私は彼女こそがその存在であると思っていた。一方的な愛着、相手を顧みない献身、破壊的行為。彼女がナイフを取った時に危ういバランスでようやく立っていた全てがドミノのように崩れだした。
その一方で不思議だったのだ。愛することも愛されることも許されないと語りながら、彼女が自分の愛に胸を張る少女であることが。彼女は卑屈でありながら、勇敢で、ある種英雄的だった。アンバランスな女の子。
 
ガーベラと、彼女を抱きしめるアナベルの姿がその根幹だと分かった時から無性にマリーゴールドが愛おしい。
母と娘の物語は、父と息子の物語であるグランギニョルよりも一層無力な世界を成していた。周囲を黙らせる権力も、剣を振るって叩きのめす力もない。屋敷の中に閉じ込め狭い箱庭を閉ざすしかできないか弱い手の織りなす物語。アナベルも、エリカも、ヘンルーダも、他のだれもが皆無力である
今までヴァンプ、あるいはダンピールの視点に立って世界を垣間見てきた私たちにとって初めてヴァンプと共存する人間の世界である。吸血種は、ヒトの側から見れば絶望的に恐ろしかった。幼さの残る少女ですらまたたく間に13人殺す。繭期の衝動は本人にさえコントロールできない。
それでもアナベルには愛おしいたった1人の娘である。いるかどうかも分からない神を追い求めるほどに。奇跡に縋るほどに。
 
クラウスに肩入れし続けているタイプの繭期なので原初信仰をずっと苦々しく思っている。彼等は勝手だ、TRUMPなる偶像に祭り上げてその中で悶え苦しむ個を踏みつける。グランギニョルで生贄たるスーがクラウスに似せた衣装を着せられているのが、かなり気味が悪かったものだ。神の代わりに仔羊を殺して死を疑似体験させてあげようだって?そんなことクラウスが望むと思うのか。
原初信仰を切なる祈りと感じたのは、初めてだった。おとぎ話に望みをかける他ないほどの深く哀しい無力な愛。その祈りが破滅を街に呼び込んでしまうとしても、アナベルの母の愛は、あまりに胸に迫った。
アナベルのたった一つの大きな愛情で、ガーベラは生きられた。
 
ガーベラは愛された女の子だったのだ。だからマリーゴールドは愛することを恐れない、愛の為になんだってできる。
希望と呼ばれた少女はあの日母とともに死んだと言うけれど、その愛はマリーゴールドの中で生きている。
 
マリーゴールドは絶望の花だ。それはアナベルとガーベラを殺した、ソフィ・アンダーソンに向けた毒の棘である。
2800年前、クラウスに永遠なんてくそ食らえだ、と言ったソフィが今度は自分を重ねたガーベラに同じ言葉を吐き捨てられる。罪に対する、罰である。
ソフィの業は、ガーベラの持つものを持たずに育ち来たことだ、と思った。同じダンピールでありながら、深く愛された少女と、愛を知らない少年。
LILIUM感謝祭で紫蘭と竜胆がファルスに向ける労わりめいた憐憫と愛情を見た。それでもソフィの見る悪夢の中で、紫蘭も竜胆もソフィを呪う。ソフィには、向けられた愛情を受け取ることができないのではないだろうか。いつかの昔、ウルの手をはねのけたように。
それは両親の祈りを知らないままに育った孤独な少年の逃れ得ぬ奈落だ。
寂しさのままに、ガーベラの意志さえ踏みにじって彼女を摘み取り自分の庭に植えたソフィは知らない。その絶望がいずれ美しい箱庭を滅ぼす綻びになることを。
 
だからこれは、希望の物語なのだ。
抗えない、神にも等しいものに押し付けられた楽園のような地獄さえ、か弱い愛が打ち壊す。
私が恐ろしいのはLILIUMの箱庭の息詰まる閉塞性なのだ。誰も自覚さえできないままに囚われて、逃げられない。親たちは誘拐された少年少女たちをどんなに探しただろう--それももう遠い昔の話、なのだ。
ユートピアの語源は「どこにもない」である。夢想しながら、決して手の届かない夢物語。幻の庭に閉じ込められる長い一瞬が地獄めいていればいるほど、マリーゴールドの結末は希望の誕生たる。
母と娘を引き剥がしたソフィ・アンダーソンの残酷は、巡り巡って彼から美しい花たちを引き剥がす。
甘き死よ来たれ。
ただひとり、ソフィを呪った少女を置き去りに。
リリーが第3の不死を得ることもまた、罪と罰を感じさせる。彼女はソフィを呪ってしまったからだ--かつてソフィがクラウスをそうしたように。リリーがクランを滅ぼすのは他の少女たちの意思を顧みない彼女の独善であり、ソフィの苦悩に対する不理解でもある。すべてを覚え、ファルスの孤独を見つめて生きていたスノウが選べなかった道へ踏み込んでしまった。
汚れない花のままなら、枯れて死ねただろうに。
 
呪とは、祈りを唱える口と、ひざまずく人を表す文字である。元々は祝と同じく、神に願うことを意味していた。
イニシアチブとは呪であるな、と文字の成り立ちを眺めていて思う。それは必ずしも「のろい」ではなく、「まじない」でもあるし、きっと「祝い」にもなり得る。
誰かの願いが、のろい、となった時、過ちの歌が響くのだろう。
 
マリーゴールドは匂いの強い花である。その香りを虫が嫌がるので、弱い植物の側に植えてその生育を助ける為に使われることがある。
コンパニオンプランツ。畑の医者、と。
屋敷の周りに植えられた沢山のマリーゴールドもまた、誰かの祈りだろうか。
 
花言葉は一つではない。絶望の花は、別れの花であり、友情の花であり、変わらぬ愛の花であり。
「生きる」。
それはなんと美しい呪いだろう。

遅咲きの花(かけ隼雑感)

本日から大阪公演も始まりもう残すところ3日となりました「駆けはやぶさひと大和」、皆さんはもうご覧になりましたでしょうか。
残念ながらチケットはもうほぼないので(こんなに嬉しいフレーズがあるだろうか)当日券チャレンジをしていただくかご予定のない方はDVDを是非!今ならスペシャル版がネットで予約できます!

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一作目の「もののふ白き虎」初日からずっと見ていたシリーズが終わってしまうことがいかにも寂しく、けれど終わりに相応しい晴れがましい舞台です。

大千秋楽を迎える前ながら本編、そして前作を合わせて考えていたことを一旦まとめておきたく。
あっもし「もののふ白き虎」「瞑るおおかみ黒き鴨」をまだご覧になっていないようでしたら是非先にご覧ください!!!!

※今回は全体の感想というより時系列整理と斎藤一というひとの話です。登ちゃんの話はまた別途したい…。

戊辰戦争終結です…!」は一体いつどこでの話なのか、斎藤一があの時点で刀をなぜ握っているのかをつむ鴨の時から考えていたんですが、今回かなり合間の情報が追加されたので何となく流れが見えたかなと。

まずざっくり日時が分かっている流れは以下の通り。(新暦です)

会津降伏1868年11月6日
甲鉄奪取作戦(宮古島海戦)1869年5月6日
土方歳三戦死1869年6月20日
戊辰戦争終結1869年6月27日

鉄之助が一度目に訪ねてきたのは会津降伏後、また二度目に訪ねてくるのは宮古島海戦の直前に脱走した後(3月と言っていますが旧暦カウントなので新暦だと4月末~5月頭です)。

一度目に訪ねてきた場所はおそらく越後高田。1869年1月以降ここが会津藩士の謹慎所です(東本願寺高田別院)。
会津だと鉄之助が言っていたのをさっくり忘れていました。越後高田に移動させられる前の塩川村謹慎なので時期が1868年末になります。
斎藤は(史実上は変名で)会津藩士として一緒に謹慎していました。それなりに監視もあったでしょうから「なんでここ入れんだ?」はもっともなコメント。
この時勝から土方はまだ戦っていることを初めて知らされます。

駆け去っていく斎藤がその後どうしたのか?ですが、ここでつむ鴨の「最後まで戦っていたのは土方ともう一人、お前だよ」という大久保の話。
謹慎所から斎藤一は脱走している、のだそうです。(越後高田からですが、記録は会津藩士記述の「幽囚録」にあるとのこと)

「まだ戦いは終わっていない」と知って脱走した斎藤が目指すとしたら北でしょう。徒歩だとしても単純に120時間歩けば歩いていける限界、つまり本州北端まで行けるようですから、鉄之助が二度目に会いに来る頃、つまり5月には既に近くにいるはずです。
でも彼は函館には渡らない。
鉄之助が懇願してもそれは拒否されます。では彼はどこにいるのか。

甲鉄艦隊奪取作戦の頃、新政府軍は青森に集結していました。だとしたら彼はそこでたった一人の戦争をしていたのではないか、というのは推論ですが、大久保の話を裏付けもします。
伊藤博文(劇中ではほぼ俊輔ですが)が「俺斎藤苦手!」と公言しているのですが、劇中ここの接点が全然ないので、あり得るとしたら青森近辺でひとりゲリラ戦をしていた斎藤に襲撃されたトラウマ…というのが案外ことの流れがすっきりするかなあと。

斎藤が海峡を挟んだ向こうでゲリラ戦をしていることを鉄之助から聞いて、島田が戦争の終わりを告げにくる、というのがつむ鴨のオープニングではないでしょうか。

なぜ函館に来ないのか、については、幾つも理由があるのだとは思います。
「国のひとつも持っていかなければ謝れない」でも会津は守れなかった。
「生きろと命じられた」命令違反です。
脱走し敵に付いた辰之助については切腹もクソもないだろと斎藤は言いますが、それは誠を捨てていればこそでしょう。捨てていないのならばそれを裏切れない。守れなきゃ切腹、は武士とも言いがたい出自の彼らの「士道」であり誇りのかたちなのかもしれません。

それを飛び越えて、私には西郷隆盛の言葉が思い出されてなりません。
「あいつらの泣き顔は見とうない、俺が生きてきて一番しちゃいけんことだ」
顔を見れば迷う、と。

土方は泣き出してからずっと、近藤に背を向けていました。
沖田は最後まで笑って死んでいき、鉄之助はその背後で、彼が息絶えて初めて泣き声をあげます。
そこには確かに愛情があるから、泣いてしまえば迷ってしまう。迷って生き延びられればそれでいいのです。でも先がないのなら、見ては、見せてはいけない。

だって泣くでしょあの斎藤一は…。
そこに行かない、それもとても勇気のいる愛情でしょう。

斎藤は「生きろ」と言った土方の顔を見られなかった、そのまま二度と顔を見ずに彼は生きていく。
彼が明治10年まで迷い続けていたのは、行かないことを選んだ後悔なのかもしれません。
行けば土方は喜んだのかもしれない。助けられたのかもしれない。それは答えの出ない問題です。
「死んだ奴のことは分かんねえ!」と、それが事実だとしてもそう簡単に言い切れるわけがない。

「生きるために笑ってみろ」という土方の言葉はきっとその後悔を打ち晴らしたのでしょう。

つむ鴨の最後、顔を上げて、まっすぐ歩いていく斎藤の背中を見守っている土方の顔はとてもきれいな笑顔だった。
「お前のお陰で楽しめた」と最後の最後に言った土方の曇りない笑顔です。自分ではうまく笑えなかったと言うけれど、斎藤から見たらあんなにきれいに笑っていたのです。それが最後に記憶に残るなら、函館に行けなかったことはきっと間違いではなかったのでしょう。
「俺の人生勝ちだぞ」と近藤が言ったように、きっと土方も胸を張って言うのです。だって楽しかったのだから。

今シリーズは「時の流れに呑まれた物語」であり、その大いなるうねりの中で人の手はあまりに小さく、たった幾つか握りしめて守ろうとしたものさえ時としてままならない。
戊辰で戦争を終わりにと亡き師に誓った桂は西南戦争の最中に病で亡くなり、無論その後も戦争は止みません。「大久保さんを頼む」と村田に委ねられた大山ですが、その大久保は西南戦争翌年に暗殺されてしまいます。「新しい時代は汚さず作ると決めた」伊藤すら、やがてハルビンで凶弾に倒れる。

函館を越えて生き延びた横倉も、鉄之助も、西南の年にはもういません。
横倉は僅か一年後に竜馬暗殺伊東甲子太郎暗殺の罪を問われて収監され、獄死します。
鉄之助は病死。まるで沖田の人生をなぞるように、刀を握っては死ねない。

けれど、「死は好むべきにあらず、また憎むべきにあらず」と吉田松陰は言い残しました。
桂が唄う彼の遺言は現代語訳をすれば以下の通りです。

゛死は好むものではなく、また憎むべきでもない。世の中には生きながらえながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなしとげる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり私の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、要するになすべきことをなす心構えこそが大切なのだ。゛

敵味方の別なく、そのように生きたのだと思えてなりません。
それこそがまほろばだと。

多くの犠牲を払ったとしても、その意地と誇りが、いつか誰かを生かすのです。
歴史の波に沈んでいくはずだった物語を、中村登の筆が生かし、悲しい終わりなど否定するようにただ美しい日々を愛する人に語り聞かせたように。
あらゆる手に生きろと背を押され、たったひとり残った斎藤がやがて長い悲しみの中に沈んだ貞吉の背を押すように。

1877年、西南戦争でようやく花開いた遅咲きの蒼は、母成峠で突きつけられた「お前にとっての新撰組」の答えでしょう。
もう新撰組は他になく、彼の上に咲く花は桜ですらないのかもしれない。それでもその背には、きっと誠の一字があります。
結成当初、それこそ頂点であった始まりからそこにいた斎藤一が、一番最後に新撰組になるのです。そしてこの先の長い人生を賭けて、たったひとりで「勝ち」を証明していく。

途方もなく険しいその道は、けれど雨上がりの眩しさと、きっとその背を見ている沢山の誠に飾られた花道でしょう。

SH考察「楽園と世界について」

[chapter:1 楽園について―Elysionを中心に―]

 ・キリスト教文化圏

 4thStoryCDであるElysionはそれ以降のアルバム作品と異なり、国家(地方)、言語、時代があまり固定/明示されていない。俗に一期と呼ばれる時期のアルバムはこの傾向が強いが、Elysionに関して全体を通じて存在する世界設定が何かあるかと考えると、楽園思想及びキリスト教文化ではないだろうか。楽園思想に関しては表題が「楽園幻想組曲」である点から既に指摘できる。またキリスト教文化に関してはアダムとエヴァ、エデンのようなエルの側の曲に現れるモチーフが分かりやすい。またArkの箱舟信仰、Sacrificeのカトリックの村(神父はカトリックにおける司祭の呼び名)などがあり、またBaroqueに関してもタイトルの元であるバロック主義がカトリシスムの芸術活動であったためキリスト教文化の中でもカトリックの文化の元にあると思われる。
Elysionキリスト教文化圏における物語であるという事から二つの観点が発生する。
 一つはこの作品の楽曲が「恋物語」とされている事のキリスト教的意味である。ArkからStardustまでの五曲が成就しない恋物語である事は明確であると思うが、それだけでなくアビスとエルの関係性も本来恋物語であると私は考える。何故なら肖像でアビス=アダム、エル=エヴァである事が書かれているからである。アダムとエヴァが初めの男と女であり、また人間で最初の恋人であることはご存じかと思う。父と娘という形に変形しているがアビスとエルは本来恋人なのである。
 ところがこの恋物語キリスト教文化圏にある時、総じて罪悪である。といっても恋の末に誰かを殺す事がではなく、恋をした事自体が罪悪なのである。
 キリスト教文化及びそれに基づくヨーロッパ文化は自由恋愛に比較的寛容でない。教義に父と子というシステムを取り入れているため家族構造の維持と家父長への従属が宗教の中に大枠として存在するからである(教会は家であり司祭が父であり信徒が子である構造)。そのためキリスト教では結婚を秘蹟(サクラメント)としており、近代までは自由恋愛を認めていなかった。あくまで結婚と家族化であり、自発的・放埓的恋愛は背徳である。恋愛をして結婚をしないという形は家族構造に依る教義の否定になるため忌避された。
 結婚によらない恋愛は悪である。これは性愛(=豊穣)を要素として持つ他宗教にはあまり見られない観念であり、このキリスト教的恋愛観念に基づいて考えた時初めて恋物語は結末でなくそれ全体が背徳であり、故に退廃=堕落へ至る。彼らの愛情は予め世界の枠組みから否定されているのである。
このためElysionの世界設定は背‐キリスト教世界である、と言う事もできるだろう。キリスト教概念不在の異教の世界ではなく、まず大元にキリスト教的思想があり、人物がそれを理解した上でそれに背信している。
 また楽園は二種類あるという点についても、このキリスト教とその背信において解釈する事ができる。二種類の楽園とは表題にもあるエリュシオンと肖像でのみ明言される、キリスト教世界におけるエデンである。

・エデンとエリュシオン

 原初の楽園エデンの物語は旧約聖書創世記で語られる。失楽園、原罪と追放の物語である。エデンに植えられた知恵の木の実をアダムとエヴァが食べ、神に匹敵する知恵を得た。これをキリスト教では原罪=あらゆる罪の根元とするが、恋愛の禁忌性に関してもこれは関係してくるのではないだろうか。キリスト教において女性が殊に軽視される根源は楽園追放のきっかけを作ったエヴァの存在にある。
エルの肖像にある「楽園を失った罪」は文脈から知恵の実を食べた事そのものではないと考えられるが、原罪の問題点は知恵を得た事自体ではなかった。神とアダムの間にあった約束が破られた事、エヴァとの関係を約束よりもアダムが重要視したことである。原罪は恋によって行われ、全ての罪は恋に起因した。最初の人アダムは恋によって神に背信したとも考える事ができる。
 もっとも、楽園喪失は神の計画でありいずれ必然であったとする考え方もある。楽園におけるアダムは全ての動物と植物を支配する権利は持っていたが、神の庇護化にあり、子供であり、独立した自我を未だ持たなかった。背信によって知恵を得、楽園を追われた彼は神から自立し、自発的に何かをする事ができるようになったとも考えられる。また全人類に付与された初めの背信たる原罪は、いずれ救世主の到来と犠牲によって贖われる事が予定されていた。神学では知恵の木はキリスト磔刑の十字架の予見として扱われる事が多く、同じようにアダムはいずれ来るイエスを予兆する。原罪はいずれ取り去られ、その際に人間は自発的な意志によって行いの善悪を選択できるようになる。
 ともあれ楽園は人間の自発的な歴史の始まりの地点で既に失われている。エデンは剣を持った天使に警備され人間はそれに近づけない。エデンは世界から切り離され、人間は荒野で暮らすこととなる。
 ところがElysionではここに別の楽園であるエリュシオンが出現する。エリュシオンは死者の楽園であり古代ギリシャの文学作品に多く見て取れる。紀元前8世紀頃は西方の島とされていたが紀元前1世紀頃になると場所が変化し、地下にあるとされるようになる。ギリシャ神話に属しているので旧約聖書新約聖書の中にはエリュシオンは存在していないが、実際の歴史ではどうあれElysionの世界史においてはエデン喪失の後に発生した楽園である事は明らかである。創世記においてアダムから数えて十代目、ノアの誕生と前後してアダムが死ぬが、ここに寿命に関する記述がある。知恵の木の実を食べた為に人間はその日の内に死ぬ事になった、と(天界の時間での一日で、失楽園からアダムの死までに地上では千年が経っていた)。エリュシオンが死者の楽園である以上、原罪による死の獲得が起こった後でなければ考えられない楽園である。人間は寿命と避けられない死を知恵、自由と共に得た。
なお第四の地平線が「痛みを抱く度に生まれてくる悲しみ」とされるのもこれに関係した言葉だと考えている。原罪の後に神によってエヴァが出産の痛みを与えられた事が創世記からの人類史における最初の苦痛であるからだ。ちなみに旧約聖書においてエヴァの死に関しては記述がなく、彼女がいつ死んだかは定かでない。
 このエデン→エリュシオンの変遷を見ると、Elysionにおいて楽園が求められる時、これが死者の楽園エリュシオンである事は明らかであろう。そして恋物語を生きるのと同じように、アビスやエルや少女達がエリュシオンを描くのは自発性の獲得の故であり、原罪の産物でありまたその選択も罪である。
 荒野に放逐された人間がエリュシオンを描く時、彼らはその度に背信を重ねている。何故ならElysionはあくまでキリスト教原理に乗っ取っている世界であり、そればかりかエルとアビスは原罪を犯した張本人であり罪人の始まりでもある。しかし「時の荒野を彷徨う罪人達」はエリュシオンというもう一つの楽園を信仰し、作り上げてしまう。エリュシオンは少なくともキリスト教的神が与えた楽園ではない。
 死者の楽園であり楽園=奈落であるからエリュシオンはSH世界において冥府と等しい世界である。地下にあり、死後行く場所であり、魔女とラフレンツェを見るに階段で地上と接続している(扉は閉ざされていたが開いた)。ただし魔女とラフレンツェは絵本の中の話であり実際にエルやアビスのいる世界で起こったことかというのは明らかでない。しかし地下世界エリュシオンの存在自体は、アビスとエルを起因とした楽園追放の後物語世界で実際に発生したものであると考える。
他のアルバムにも下方にある死者の世界の概念は存在し(珊瑚の城「楽園は墜とされた」、井戸の底の異土――ドイツ民話においてホレは冥府の女王であり、井戸の底は彼女の王国である)、またアルバム間に世界が共通である(将軍他人物の共通、またテーマ的フレーズの共有)。Elysionで語られた物語は大きな時系列の中に位置し、他の地平線世界の概念の起源でありうる。
墜ちた楽園であり死者の国ではあるが、ともかく人間は神に背を向け荒野に出て、そこに楽園を得たのである。ABYSSという単語には地獄という意味はないため、奈落は地獄ではなく深淵、下方の昏い場所である。よって天国‐地獄の対称における地獄を誤認したものではなく、エリュシオンはキリスト教的二項対立の外側にある。
荒廃した闇の底であり、地下の死の世界であってエデンと隔絶した別種の「楽園」であるエリュシオンは、劣りはするが背キリスト教者にとって自ら獲得した、最早一方的に奪われない楽園である。
 創世記という歴史から、二つの楽園が発生した。ところが人間はここに停滞しない。楽園に関して見た時、その最たる人はアビス=アダムである。

 ・アビスとエル―死の克服の試み―

 エル=エヴァはどうやら予め死んでいるらしい事がElysion全体から見て取れる。胸の痛みによって春から遠ざけられる彼女は常冬に固定していると思われる。冬=停滞、死である事は文学や民間信仰の中で明らかである。また楽園sideEのPVにおけるエルは人形であり、アビスが粘土からこれを作っている。しかし彼女は崩壊してしまいアビスには崩壊を阻止できない。壊れた人形エルから魂のような像が抜けて扉の向こうの楽園へ至る為、人形エルは命を持った人形である。
 粘土から命あるものを作るというアビス―エルの関係性は創世記の中に見られる創造のオマージュであると思われる。神は土塊、即ち粘土からアダムを作ったのである。
神が行った創造の奇跡を、アビスが自らの手で行う。PV冒頭に見られるフラスコの中の小人の図像を見ても、アビスは生命の創造を実際に行っているものと思われる。この想像は魔術的な要素よりも科学的な要素が強いのではないだろうかと思う―科学は宗教と対立し、錬金術は魔術の科学化したものである。
アビスのこの想像にElysionにおける背信の概念が深く関係している。神に背いた結果得た死という苦痛を、アビスは自らの手で克服しようとしているのだ。
彼は長く持たない人形であるとはいえ少女の形でエルを得ており、アビスはこの点において神への成り代わりに成功している。肖像のタイトルである「八つの誕生日」、「もうすぐ約束した娘の・・・」、傷付いて死にかけたアビスの帰還とエルの崩壊というPVの内容からエルは八つの誕生日を迎える直前に崩壊を遂げるらしい。しかし逆に言えばアビスの創造した人形エルは丸七年生きていた事になる。宗教観の中には年齢を追って行う儀式があるが、中世において七歳とは堅信礼を行い聖体拝領ができるようになる年齢である。つまり七年という歳月に幼児期からの成長による人間性の完成を見る事もできる。
アビスは父であり創造主である神を越えようと試み、エルの崩壊と自らの死を迎えてもそれは留まることがない。アビスは反復するElysion世界で死に反逆しようと試み、その一つの結末としてあるのが楽園パレードであると私は思う。
 楽園パレードでアビスと一行は夕陽に背を向ける。日出が誕生であり日没が死である事はSHにおける朝と夜のイメージにも窺え、また文化表象においても確かである。パレードにおいて終焉はあくまでも仮り初め、死は世界からの解放である。この楽園パレードに関しては後にもう一度述べるとする。
 なお、エルがアビスを待つあの部屋について、私はそれが生と死の狭間の空間にあると考えている。始まりの扉と終わりの狭間――アビスが水底に鍵を掴もうとした以上それは沈んだ場所であり、しかもエルが更に墜ちていく余地がある為死に完全に傾いてもいない。そこは骸の男イヴェール・ローランが留まっている空間であり、またメルヒェン・フォン・フリートホフとエリーゼが存在する場所であるだろう。

 ・銀色の髪と緋色の瞳

 ところでエルやラフレンツェは何故銀髪に赤い瞳のアルビノなのであろうか。SH作品において髪の色や瞳の色はその人物の性質を表していると考えられる(Moiraにおける紫色の瞳=死や白い髪=運命の白い糸のモチーフなど。なおyokoyan画によるエレフセウス・アルテミシアの紫色の瞳は菫色ではなく赤紫であり、色素的に虹彩の色として通常でも色素異常のパターンでも発現しないはずの色である)。アルビノ的外見の登場人物は他作品にも覗えるが、この意味が作品中で明言された事は現在のところない。
 ところで、聖書の中にアルビノ的容姿として書かれる登場人物がいる。ノア、救世主イエス、そして神そのものである。神は人間の形を取って現われる時「白き人」であり、イエスは救世主として覚醒するとその外見描写が白化する。また特にノアに関しては旧約聖書外典エチオピアエノク書において「肌は雪のように白く、またばらの花のように赤く、頭髪、ことに頭のてっぺんの髪は羊毛のように白く、目は美しく」と記述され、アルビノ(病名としては先天性色素欠乏症)の症例でもっとも範囲の広い眼皮膚白皮症と似通っている。
アルビノ的外見である神/イエス/ノアの三者に現れる共通点はその神的性質である。イエスは神の息子であるし、またノアはアダムから数えて十代目の人間の父を持つ人間であるが、同じく旧約外典ヨベル書ではその母ビテノシは天使と人間の娘の間に生まれたネフェリムであるとされる。
 エル=エヴァであるから、彼女はアダムの骨から生まれてはいるが神の手で直に作られている。またラフレンツェの誕生がMärchenで提示されたアルテローゼの呪いによるものだとすると野薔薇姫‐ラフレンツェは一種の処女懐胎である。処女懐胎は神と関連性を持つ(この場合産まれた子供の父親は神となる)。
またアビスは外見年齢からするとそれほど高齢ではないにも拘らず白い髪をしている。瞳の色は不明だが仮面を付けている点から、これも赤ではないかと私は思う。イエスやノアがアルビノとされ、また白い動物がその希少性から神性を持つと見られる(イエスのシンボル動物には白化個体の白いテン(アーミン)がいる)一方で、中世頃から近代に至るまでアルビノは障害であり、穢れでもあった。時には罪の子供とされ、市井にアルビノの子供が生まれると殺されるか見世物小屋に売られる事例が多い。部屋に閉じこもる人形エルや祖母以外を知らなかったラフレンツェと異なりアビスは人間社会に接して生活をしているため、赤い瞳は隠さざるを得なかったのではないだろうか。
 なお色素欠乏は全身だけでなく肌のみ・髪のみ・虹彩のみなどの発現パターンがあり、その色素量の程度によって色合いが変わり、虹彩の色素が少ない状態では青になる。ルキアの銀の髪/青い瞳もこの類だとすると、彼女の親がどうあれ「黒の神子」と扱われる理由はここに関係するのではないかと思う。
黒の神子の外見的特徴にアルビノ性があるのではないかという推測については、またChronicle2ndのジャケット右側の、白を基調とした色彩で描かれた子供達についても考えられる。ただし彼等は一貫してセピアがかっており、またその色合いの濃さから白髪でないだろう人物も何人かいるため、これはあくまで参考程度のものかもしれない。


[chapter:2 世界について―歴史の予言書と物語―]


・世界構造

 楽園について前項で述べたが、ではこの楽園を望む世界とは一体どういったものなのか。地平線=物語世界というSHの世界観の中で大枠である単語からまず考えようと思う。
現在地平線の名と通し番号を持つものにはChronicle~Märchenのアルバム七作品がある。シングル作品である少年は剣を・・・/聖戦のイベリア/イドへ至る森へ至るイドは地平線としての通し番号を持たないが、聖戦のイベリアに関しては写真集Iberiaで「物語と運命の狭間の地平」と表現されており、また少年は剣を・・・では少年によって「第五の地平線の旋律(ものがたり)」が口ずさまれる。イドへ至る森へ至るイドがMärchenに繋がる事は音楽の繋がりから明確である。そこでシングル作品の世界のあり方は二つの地平線の合間、「狭間の地平線」形式であるとする。Picomagicの名を持つ二作品、Elysion前奏曲に関してはオムニバスの色合いがあり、また独立していた世界観を持つようにははっきり語られていない為この項では解釈に含めない。またChronicle2ndに関してはChronicleのリメイクであるため通し番号付きの地平線に準じる。
 物語世界という大きな概念の中に【地平線】【狭間の地平線】の二通りの世界の形がある、という事である。
では地平線とは何であるか。また何故地平線=物語世界なのだろうか。
地平線という単語は一般的に「1.視界の開けた平野で、大地と天との境にほぼ水平に見える線。2.観測者を通る鉛直線に垂直な平面が天球と交わる大円。」というように定義される。またHorizonに関しては「1.地平線、水平線。2.(認識・知識などの)限界、範囲/視野」である。地平線=(ある範囲の)世界であるという観点は主にこれらの2の意味から成るのではないだろうかと思う。つまり各作品はある観測者(主人公)を中心に置いた大円状の世界であり、またその世界の形は観測者の観測できる限界範囲である。
この世界構造は地球が球状であると考えられる前の時代、ごく当然に信じられていた盤状の世界構造に似ている。
 第一~第七の地平線において各曲またはアルバム全体を表現する単語には次のようなものがある。
Chronicle:歴史・黒い書・黒いクロニクル・物語・頁
  ―2nd:幻想物語・黒の予言書・記憶・歴史・物語・頁
Thanatos :幻想・風景・玩具・悪夢
Lost   :幻想・記憶・物語・詩
Elysion :絵本・恋物語
Roman :物語・幻想物語・詩・旅路・旋律
Moira :物語・神話・叙事詩・詩
Märchen :物語・復讐劇・唄・童話・劇
これによって地平線の世界構造を解こうとすると大きく分けて二種の構造が発生する。書籍構造と入れ子構造である。

① 書籍構造―頁の中の物語

 世界観を表現する際に顕著に多用される単語は物語であり、次いで本の形式を持った諸表現がある。幻想物語という単語より幻想と物語が意味合いにおいて同じ方向性を持っているとすると、地平線世界に顕著なのは物語/書物としての世界の表象である。
 地平線は書籍様式を持つ。地平線が平坦な盤状世界であるならば、この平坦な世界はまた開いた本のページの上にあるとも考えられよう。各曲にページあるいは章としての性質があり、結果一枚のアルバムが一冊の本として機能するのである。この書物構造に関してはChronicle2ndやMärchenのページを繰る音、Märchenコンサートにおけるページの捲れる演出などに顕著であり、また一次作品ではないがRomanのコミック版における一冊の書籍としての幻想物語にも見られる。アルバム全体が本の中/本の上の物語である。
世界が書籍の様式をしている事で起こる出来事としては反復が考えられる。
反復性は地平線番号を持つ作品全体に共通して現れる性質である。逆再生によって最初へ戻る、最後の曲が最初の曲の冒頭へ繋がる、あるいは曲中に物語が廻るべきであるという世界観が示唆される。物語はループしている―これは世界が書籍であるとされる以上必然の出来事である。一度読んで閉じた本は再び開かれれば全く同じ物語を読者に提供するのだ。
一方、この書籍様式を持たない作品として存在するのが狭間の地平線である。少年は剣を・・・、及び聖戦のイベリアは曲/世界観構造として書物というよりも唄の性質が強い。またこの二作品は作品中に反復性を持たない。聖戦のイベリアにおいて語られる「書の歴史」や「争いの歴史」は作品中で阻まれ、争いが終結した事で作品範囲内において変更を得るものと考えると地平線と狭間の地平線の性質の違いは顕著である。
狭間の地平線は改竄の可能性を持つ。
また少年、聖戦の二作品においては「去る」という出来事が起こる。少年は去り、悪魔も去る。彼等がどこへ向かったのかは定かではない(悪魔は去った際に死んだのではないかという疑念がIberia中で示されているが未確定である)。書の歴史の阻止というイレギュラーの発生と共に、反復性を持たない彼らは狭間の地平線から去る。この去るということの意味については後の項に述べる。
なおイドへ至る森へ至るイドに関してはMärchenへダイレクトに移行する形式であり、地平線Märchenと一体となって反復・永続性を生じさせる。

② 入れ子構造―頁を捲る読者

 書籍と書籍を読む者が存在している顕著な例としてはMoiraやMärchenが挙げられる。ズヴォリンスキーは叙事詩エレフセイアを紐解いて神話の時代を蘇らせ、エルは絵本を開いて世界の起源と(仮初めの)終焉を見る。井戸のほとりに落ちる本を開くのは幼少期のグリム兄弟と思しき子供達であり、開いた事で童話は再生される。
観測者という意味におけるRomanにもまた、本としてではないが外側の物語と内側の物語がある。双子人形は物語を観測し、イヴェールの誕生に繋がる物語を探す。
Elysionの構造は他作品の入れ子構造と少し異なっており、書籍世界と観測者世界が歪んで入り組んでいる。ArkからStardustまでABYSSの頭文字を持つ五曲はアビスの述懐から始まり、彼の来訪によって終わる。少女達の恋物語に対しての観測者アビスがおり、彼が介入する事で彼女達の恋物語は月並みに終わることを阻まれる。一方エルの~という名を冠する四作品においての観測者は不明であるが、アビスを他者として観測しており彼の死を述べるもう一人の視点がある。PVにおいては「エルの絵本」を読むAramaryという構造が取られている事からも、個人として明言されていない読者Aが存在すると思われる。他作品の入れ子構造における観測者とはこちらの観測者が近しい。
地平線―観測者と観測者の生きる世界―書籍世界(作中作)という入れ子形式によって、書籍構造に見たループの様式は複雑化する。書籍構造の性質通り地平線がループするためには、観測者がまた書籍を開かなければならない。つまりループの際に、本を開く側も反復の中に巻き込まれているのである。書籍が読者に物理的影響を及ぼすという、ある種の魔術的な様式が成立している。
入れ子構造において特徴的なのは観測者―書籍間の時間の隔たりである。ズヴォリンスキーのモデルは叙事詩トロイア」を元にトロイア遺跡を発見したドイツ人考古学者/実業家シュリーマン(1822-1890、トロイア発掘1873)であると考えられ、またグリム童話を編纂したグリム兄弟の時代もこれに近い。(長兄ヤーコプ1785-1863、次兄ヴィルヘルム1786-1859、末弟ルードヴィヒ1790-1863、グリム童話初版発行1812)。
一方作中作としての書籍の記された時期は明確にならないが、例えばイドへ至る森へ至るイドにおいてはルートヴィング家とヴェッティン家の対立、Märchenではドイツ農民戦争宗教改革など時代が特定されるモチーフがあり、また農民戦争におけるゲーフェンバウアー将軍の名から聖戦と死神/見えざる腕などとのある程度の時代の近似が見られる。これらの著作が記されたのが概ね中世であることは推測される。
叙事詩エレフセイアに関してはあくまで幻想ギリシャであり、実際のギリシャにおける逸話と関連性はない可能性もあると私は考えている。地の文が敢えて英語である事、PVで死神が大鎌を持っている事(十五世紀以降)、回転木馬という単語(十九世紀フランスにて発明)という点からおそらく十九世紀の英語圏、または英語に詳しい人物の創作物なのではないかと思う。
観測者―書籍の間に時間的・次元的距離がある。ところが反復は観測者と彼または彼女が読む書籍の二つの時間を一つの流れとして反復するから、ループの基礎は観測者の側にあると思われる。Märchenコンサートのグリム兄弟の演出に顕著であるが、観測者は何故繰り返し書籍を開くのか。
ここに「歴史」という存在が関与しているのではないかと私は考える。

 ・「物語」と「歴史」

 「歴史」という言葉に関して、黄昏の賢者にあるサヴァンの言葉に注目したい。
「繰り返される『歴史』は『死』と『喪失』、『楽園』と『奈落』を巡り、『少年』が去った後にそこにどんな『物語』を描くのだろうね?」
 カギ括弧を付けた部分はCDの事を示していると思われる。ところがこの台詞において歴史、つまりChronicleは他の地平線(及び狭間の地平線である『少年』)に対して優越であり主格である。循環構造を持つ『歴史』がその他の地平線である『死』~『楽園/奈落』を巡り、また『物語』を描いている。巨大な書籍構造である歴史のループの中にその他の地平線世界が包括される構造がここで想定できるのではないだろうか。
 「歴史」とは地平線に関してChronicleであると同時にまたその本来の意味としてHistoryであり、Geschichteである。それは人類の進化の道程であり、起こった出来事の記録であり、何より実際起こった出来事に関する記述である。
 一方「物語」とは何であるか。Romanとして語られる事が多いがRomanの直訳は「小説」である。またおそらく同じ意味で童話Märchenという言葉がある。物語の最大の性質はフィクション性である。物語とは虚構であり作り話であり、歴史と違って実際に起きたとは限らない。
予言書によって歴史は規定されている。歴史は改竄を許さない―だからChronicleで歴史に反逆した彼等が見つけたのは「物語」である。フィクションであり、だからこそそれは歴史の中に内包されていながら、歴史を裏切って可能性を孕む。
歴史/物語の二項対立はまた『少年が去った後』に物語が来る事からも顕著であると思われる。つまり歴史の枠の中から何らかの逸脱があった後、物語を描くという手段が得られる。しかもその物語の内容は未確定であり、どんな物語も描けるのである。

 ところで、整合性を持った年代記として語られる二十四冊組「黒の予言書」のモチーフに関して、聖書に関係する範囲に二種類それらしいものがある。一つは新約聖書黙示録であり、もう一つは初めて書籍を書くという技術を獲得し、神に見せられた未来の歴史を記述した「神の書記」エノクの記録である。黒の予言書はこの二種類のモチーフが混じったものなのではないかと思う。つまり黒の予言書に記された歴史は啓示として誰かが獲得し、記述したもので、予言書は歴史の予言であると同時に終末を告げる事が目的の黙示録である。終焉、審判、新世界などのモチーフは黙示録においても見て取れるものであり、また未来へ駆ける白馬も勝利した正義の凱旋として黙示録に現れる。
このモチーフから更に推測をすると黒の予言書を書いた著者αは創世記で言う「神の書記」エノク的な立場にある人物だったのではないだろうか。
この推論の根拠は次のようなものである。
黙示録の象徴数は二十四で、これは黙示録の中に出てくる二十四人の長老から来るものであり、ヤコブの十二人の子供=イスラエル十二部族の始祖とイエスの十二人の弟子を示す。つまり当時の聖書的概念における民族の全てと神の言葉を伝道する者の全てであり、全世界の数である。だから全ての歴史を記述した予言書は二十四冊組なのではないだろうか。
 また創世記で書籍の始まりとして記されているのが「歴史の予言書」である事から、予言書を記したのはエノク的人物、神に近しくその啓示を受けた人物ではないかと考察している。聖書においてエノクの書いたこの予言書はその後どこに行ったのか定かでないが、エノクの曾孫がノアであり彼の代に大洪水が起きた事から、ここで一旦失われたという事も考えられよう。予言書は遺跡から発掘されたとされているのもこのためなのではないだろうか。
また黒の予言書の著者が地平線上に不在な理由も、このモデルがエノクであるためだと考える事も可能なのではないだろうか。エノクの昇天と天使メタトロン化という出来事が旧約聖書外典エチオピアエノク書において匂わされており、彼はいなくなる。またこのエノク書にノアのアルビノ的描写があるという話は既にした。予言書の著者が去った後で、その子孫たるノアが歴史を支配しているのであろうか?
 それではアビス(アダム)とノアという存在を基盤に、楽園について再び考えてみようと思う。


[chapter: 3 反逆の試み]


・審判の仕組/死神

 Chronicle及びChronicle2ndにおいて、歴史は冒頭から既に終末に際している。終焉の洪水が訪れ、世界は水没してまた冒頭に戻る。しかしこの流れに私は疑問を抱いた。審判とは果たして本当に洪水であったのだろうか。
物語の結末として訪れたのは洪水(逆再生)である。洪水は破壊でありながら、同時に再生である。荒野に溢れた水は新しい土と栄養をもたらし、荒れた野を肥沃な地に変える。このため洪水とは死であると同時に新しい始まりであり、水を乗り越えた者は「新世界」へ導かれる。ところがこの洪水に際して箱舟、及びノアが存在する事がネックである。何故ならノアの箱舟として語られる創世記の物語の結末は、「もう二度と洪水を起こさない」という神と人類との間の契約であるからだ。洪水によるリセットと再生は聖書でそうであったように、SoundHorizonの世界においても本来洪水は一度だけのはずだったのではないかと私は思う。
ここで私が想定している本来の審判とは澪音の世界に描かれる死神の到来である。この曲はPicoMagicReloadedにおいて「新たなる地平線」に描かれる物語とされるため、この物語は物語として存在するが、未だ起こっていないと考えられる。この曲の語りにおいて「この世界で何人が罪を犯さずに生きられると言うのか」と嘆かれている事は、非常に興味深い―審判において、再生できるのは罪を犯していない罪人のみであるからだ。澪音の審判が来てしまえば生き残る人間はいないのではないかと、この嘆きを見ると推測できる。キリスト教において洪水に続く二度目の審判は黙示録にある最後の審判で、この時罪を持つ魂は全て地獄へ投げ落とされて永遠の裁きに遭い、罪のない者だけが地上に再び現れる楽園で暮らす事ができるとされる。
そこでSH世界で起こるのが、繰り返される洪水と歴史の反復の話である。澪音の世界が本来の審判であるのならば、この終焉の洪水はフェイクである。審判(=澪音)が来る前に罪人達とその歴史を飲み込んで最初からやり直す、「最後」からの逃亡なのではないだろうか。

・黒の教団とノア、及び白鴉

Chronicle世界で歴史が反復しているのが人為的な策略ではないか、と前項で述べたが、その場合その策略を実際に行っているのは誰かと言えばやはり疑わしいのはノアであるだろう。
ノアという人物に関する記述は彼の登場する曲中に案外少ない。ルキアの養父であるからには彼が孤児院の主な運営者であることはおそらく確実なのだが、ノアが教団の中でどの位置にいるのか、その目的は何なのかは不明である。だが「予言者ノア=永遠を手に入れた魔術師」だという旨をRevoが述べていた、という事実がある。またChronicleにおいてノアは救世主と呼ばれる。
ノアが永遠を手に入れた魔術師であるなら、彼は少なくとも不死であるだろう。また彼は救世主であるから、世界が終焉を迎えても彼は少なくとも確実に神によって救われる。にもかかわらずノアは予言書を用いて「何かを」している――彼は一体何を、何のためにしているのか。
まずノアのモデルであると思われる旧約聖書のノアについてであるが、彼は「善い人」「正義の人」として記述されている。洪水で一掃されるべき腐敗した世界の中でノアだけが完全に善であった為に、彼は箱舟を作り新世界へ行く事を許されたのである。また彼は洪水の後神との間に二度と洪水を起こさないという約束を取り付け、血の生贄の契約を結んでいる。人は血を食べてはならず、けものの血と肉を焼いて神に捧げる――これは人と神との間の初めての契約である。アルビノに関する話に既に述べたが、ノアは非常に神に近い存在であり旧約聖書におけるメシア的存在なのである。
にもかかわらず何故ノアはあのような人物であり悪役のように振る舞って歴史を操るか。歴史が反復する書籍であるという事が重要なのではないか、と私は考える。つまりフェイクの終末である洪水によって最後の審判を回避し、再び世界をやり直すためには歴史は同じ道を辿る必要がある。ノアと黒の教団の暗躍は、歴史がルートを外れようとした際にそれを修正する働きを持つのではないだろうか。聖戦と死神では生き延びそうになったアルヴァレスを聖戦の中で殺し、雷神の系譜では蘇った邪神を少年が覚醒して倒す――これがノアの世界を保護する手段なのではないだろうか。
勿論洪水は一度限りという約束と最後の審判が神の意志だとすればノアのこの行為は神への反逆である。ここにノアはアビスと同じような試みをしている事になる。罪人はその罪故に裁かれてしかるべきであるが、この無慈悲な裁きを拒否して荒野に彼らは生を長らえようとする。創世記で語られる原罪の始祖アダムの死と最初の罪人カインの死は共にノアの生まれた時代に起きたとされる――救世主ノアが歴史という魔術を用いて審判を拒絶することで、アダム=アビスもまた背徳の恋物語を反復し、死という終わりに留まらずにエヴァ=エルへの試みを反復するのである。つまり否定的に語られる歴史のループは実は審判による終わりを回避しようという魔術師の不断の試みであるのではないか、と私は考えている。
歴史は改竄を赦さない。
神を裏切る永遠の魔術師の魔法はその手順を一つでも間違えたなら無効となってしまうものなのかもしれない。
しかもこの反復の歴史はただの反復ではない。狭間の地平線について述べた時に触れたが、物語世界を「去る」手段があり、この外部への脱出を行う少年/悪魔に共通しているのは翼の存在である。そして「時風に向かう白鴉」の存在がChronicle2nd全体において語られている――「【白鴉】が目指す地平」は「あの空の向こう」であり、白鴉もまた時の流れに逆らう事で外へ出ていこうとする存在である。鳥の中でもカラス、特に「鴉」がここで名指しされている自体に、白鴉の役割は見て取る事ができる。
洪水の際にノアの箱舟から地表を探しに出た最初の鳥はカラスであり、一説によるとこのカラスはどこかに地上を見つけたために船へ戻らなかった。つまりカラスは新天地を見つける最初の生き物であり、旧約聖書のノアはカラスが去って戻らない事で彼の地上の発見を推測する。また鴉という文字は日本で一般的に見られるハシブト・ハシボソガラス(CROW)よりも西洋で主流であるワタリガラス(RAVEN)を連想させる(例えばポーの小説の表題「大鴉」はワタリガラス(RAVEN)であるがこれはやはり文字のイメージとして大烏ではなく大鴉が相応しい)。ワタリガラス北欧神話に主神オーディンの従者であり彼を象徴する思考のフギン/記憶のムニンとして現れてもおり、これは世界中を飛び回ってオーディンに情報を伝える鳥である。大型の渡り鳥であるワタリガラスは長距離を飛行するのに適しているという事もあり、イレギュラーの白いワタリガラスが歴史を巡り新天地を見つけだすという構造を、ノアは歴史の中に意図的に織り込んだのではないかと思う。何故なら黒の教団もノアも、白い鴉の飛行を遮ることは一切しないからである(白鴉を唯一遮るのは海の魔女セイレーンの嵐であり、この曲中で語り手は「歴史」の愛を否定している)。
ノアは歴史を繰り返す。この歴史の枠を例えば箱舟として見るならば白鴉は新天地を探して飛んでいくカラスそのものである。
勿論白鴉による新天地発見はそう簡単な挑戦ではないだろう。SHにおいて空を飛ぶ鳥は概ね同時に墜ちるものであり、翼をもがれるものである。地に堕ちて血に塗れた時彼等は挑戦者から生贄へ切り替わる可能性もある―けものの血を流す事、火で灼く事はノアと神との間の贖罪の契約であるのだから。
白鴉が去って新天地を得るのは非常に難しい――白鴉は単一ではないようで、翼を得た「少年」達はそれを失ってもまた子供達へその意思を継いで、試みを繰り返す。それでも歴史は有限である以上、挑戦の機会も限られる。
だが、他でもなく歴史がループしているという事実が、同時に白鴉の挑戦を無限に可能にしているのだ。歴史が終末へ至ってもどの翼も外へ至れなければ最初へ戻ればいいのである。ここでノアによる洪水の発生/審判回避と白鴉の新天地探索は噛み合っている。そもそも孤児院で養父として振る舞いながら、ノアは白鴉、またその可能性のあるものを育てている可能性もあるのである。歴史は繰り返すという言葉通り不死のノアがルキアの前に〈反逆者の父親(ルキウス)〉や〈逃亡者の母親(イリア)〉をも育てている可能性は高い。
 また白鴉の側において歴史の反復性、白鴉という存在の親から子への継承が見て取れる例についても少し述べる。父親ルキウスと娘ルキアである。
ルキウスという名前は一時代非常に一般的な名であったが、それは古代ローマの時代であり、この名前が汎用性を持ったのは教皇などの宗教関係者を除いては遅くも3世紀頃までであった。またこの名は名前のバリエーションが少なかった古代ローマで非常に多く使われており、複数の名を持つ中でただ「L」と略されるほどに汎用されていた。
一方ルキアという名であるが、これはラテン語の文法法則の中にある、共通語幹を持つ場合の男性名~us/女性名~iaまたは~aというルールを鑑みるにルキウスの女性型である事はほぼ間違いがないだろう。ちなみにルチアと読む時は古代~中世イタリアである程度浸透した名であったらしい。ルキウス/ルキアはどちらも語源はLux光である。ラテン語名は接尾語によって意味が変わり、ルシフェル/ルシファー(光を掲げる者)も同じ語源を持つ。これは明けの明星をも差す言葉である。
「Lucius」は人名であると同時に一つの古い称号であり、血族的に受け継がれたものなのではないだろうか。父と母を失った子供が男子ならばルキウスであり女子ならばルキアになる。白鴉が多存在を包括する概念的存在ならば、その一部である彼らもまた個体でなくても良く、寧ろ不死のノアに対して連続性を持つために一群の血族である方が、ノアが白鴉を育成し、白鴉の挑戦を繰り返させるに当たって効率が良いと思われる。
では白鴉の試みによって、彼らはどこへ至ろうとしているのか。白鴉が辿りつく空の向こう、新天地とは何なのか。

・逸脱へ至る物語

ノア=永遠を手に入れた魔術師であるならば、彼は歴史の反復を行使する前に一つの試みを自ら行っている。魔術師は不滅を求めて天へと階段を駆け上がった――この結果が成功であれ失敗であれ、ノアの求めるもの、目指すべき場所は階段の先にあると考えられる。しかし階段を上りながら魔術師は同時に堕ちる。この上昇/下降の同時性は堕落であり、また同時に物理的落下でもあるのではないかと私は考えている。ノアが救世主でありメシアである事とこれは関係しているのではないだろうか――キリストも聖書の中でまた冥府へ降りているのだ。これは死者の国につなぎ止められていた祖先の解放であり、メシアによって原罪が拭われていなかった時代の人々を救うための行為である。ノアは階段を上りながら、また罪人達を救うために堕ちていったのではないだろうか。魔術師の禁断の行為は彼の純粋さ故によって起こったのである。
一方オルフェウスもまたエウリュディケを取り戻すために階段を駆け上がるという行為を行っているが、彼の死者を救い出そうという試みは、神的要素を持つ(=アルビノの)ラフレンツェの呪いによって失敗する。
禁断である奈落へのアクセスが行われ、死者を取り戻そうと試みられる時、彼らが求めるのは死の克服であり征服である。
奈落へのアクセスという形式において、Thanatos、Lost、Elysion、Roman、Moira、Marchenは全てこれを持っている。生まれる前に死んだ骸と死んでなお生きる骸は共に生と死の狭間にあり、彼らの領域たる黄昏には生の扉と死の扉があり、壮麗にして寂れた回廊は骸の沈んだ水底である。その空間でエルとアビスは出会って恋をする。井戸の底に潜む異土=冥府の統治者はホレであり冥王でもあり、冥府の住人は生者の名を叫ぼうとも水底に閉じ込められて最早出られない。物語はその中で繰り返し奈落に接近し、死者と生者は互いにその境界を越えようと試みる。
彼らが生と死の境界の消滅を望むのであれば、必要なのは死のない世界である。死の不在は今では幻想でしかないが、かつては実在していた――エデンに死はなかった。
つまり死の克服、死の征服、そして奈落へ手を伸ばす物語の努力は最終的にエデンの獲得という形式を以って完成する戦いなのである。
黙示録は最後の審判の後で地上に楽園が再来すると述べている。ところが少なくともノアにとって、最後の審判→楽園という道筋であってはならないのだと私は考える。楽園を獲得するのならば最後の審判を回避して獲得しなければならない、審判は全ての人が罪人であるが故にどうあっても通ってはいけない道である。
そこで白鴉が外へ飛んでいく。世界が「地平線」であり中世キリスト教の盤状構造を取っているのなら、地平線を飛び出したその外側に神の手が未だ整地しない荒れ地がある可能性がある。この救済方法は物語世界が地平線であるために可能であり、「物語(ロマン)の翼」は書籍構造の世界を飛び出し、美しい荒野を目指して飛行する。

神に反逆し、自由と自立を得た人間は無数の犠牲を繰り返しながら造物主の手の外側に自力でエデンを獲得する挑戦を繰り返す。SoundHorizonの諸作品の中で母性が非常にクローズアップされながら父性がしばしば不在である理由は明言された事があまりないが、この楽園に対する世界の試みに関連して一つの理由付けをすることが可能である。
父性は神であり抗うべき作者であり、これに背を向けて抗っている最中だからこそ父性は不在であるか、存在していても母性と比べて登場が稀である―。

勿論これは推測でしかなく、Revo本人がそれを意図しているかどうか確認する事はできない。
しかし多くの死と悲劇的結末を繰り返す物語世界がそれによって成長を試み、いつか楽園を獲得する可能性を孕んでいると考えた時、どんな悲惨な結末も単なる悲劇に留まらないのではないだろうか。

桜の下にて(もののふ白き虎雑感)

国内歴史ジャンルを拗らせたことが今までほとんどなく、オタクなら大体一度は通りそうな新撰組も大河の三谷新撰組しか知らないくらい疎い人間でした。
それが昨年上演の舞台「もののふ白き虎」ですとーんと落ちてしまって、今部屋に歴史小説が積み上がっている有り様。前述の通り日本史に本当に明るくないので平行して突貫で歴史を叩き込んでいる状態です。

もののふ白き虎」は構造としては明治の世に生き残った白虎隊の飯沼貞吉新撰組斎藤一が杯を交わしながら昔語りをする、というお話です。
自分だけが生き残ったことにわだかまりのある貞吉と、貞吉に伝えなければならない「何か」を隠している斎藤。
貞吉の回想の中、会津の藩校日新館に通う子ども達が白虎隊として編成され、それはそうと夢を語ったり恋をしたり、でも戦争が次第に会津へ迫ってくる…。

舞台DVDがもうじき出るのでご覧いただくのが一番手っ取り早いと思うのです。
お話もとても突き刺さるもので大好きなのですが、同じくらいお勧めしたいのが殺陣。
とにかく動ける子が揃っていて殺陣がものすごいです。



内通者がいたり、新撰組会津にいる時期がどうも合わなかったりと、作中では必ずしも展開が史実通りに進むわけではないのですが、大まかな尺は添うでしょう。
時間軸を照らし合わせているとき、ふと気になったのが、作中の台詞「またあるその日を信じてる」です。

ここでまず時間経過の話ですが、作中で季節が分かる描写は二回あります。
一幕、篠田儀三郎が幼なじみの少女かなえを「石部桜、見に行かないか」と誘う流れがあります。
会津の桜の開花は四月下旬~五月上旬だそうなので、おおよそその頃の出来事でしょう。
二幕の冒頭、貞吉からの手紙を読む母のシーンの入りは夕暮れ(赤いライティングがとても印象的)、ひぐらしがせわしなく鳴いています。ひぐらしは六月下旬~九月ですが季語としては秋なのでSEとして使う際のニュアンスは九月に近いかなあと思っています。

会津戦争は旧暦四月~九月、グレゴリオ暦では六月~十一月の出来事です。
桜の時期はまだ会津はそれなりに平和な時期、ひぐらしの時期は既に戦争が激化しゆく頃です。

白虎隊の話が来て、編成が決まって、でもまだ戦争は会津からは遠い時期。女と言葉を交わしてはならないという白虎隊の決まりを破って、儀三郎はかなえと夜更けに会っていました。
この二人、お互いにお互いのことが好きで、でもそこ止まり。儀三郎は好きだと言えないんですが、かなえはそれを知っている。
石部桜を見に行こう、に対するかなえのリアクションは日替わりでしたが何度か儀三郎とハモって「石部桜、」と言う回がありました。子供の頃からそこは親しみやすい場所だったのか、今で言うデートスポットなのか…。
でも一幕ラストで会津戦争の開戦が告げられる。そして儀三郎は二幕、「会うのは今日が最後にしよう」とかなえに告げるのです。
敗戦の色が濃くなって行く中の決断でした。生きて彼女を幸せにするのが難しいことを彼は察していました。好きだから、幸せになってほしいから自分以外の誰かと、と儀三郎は笑います。
「またあるその日を信じてる」、は最後にかなえが告げて去っていく台詞です。

この後、会津城下戦になり、つまるところ敗戦間近。
仲間が一人一人減っていく中、儀三郎は一人死体の散らばる会津を歩いて、その中にかなえを見つけてしまう。
会津戦争は略奪や婦女子への暴行が多く見られたようです。白虎隊の育ての親として作中に出てくる西郷頼母の妻や娘たちも、そういった目に遭う前に、と全員自害をした。
この時見つけられたかなえの着物の合わせは乱れて、足も裸足でした。きっとそういうことなのでしょう。
またあるその日は、果たされなかった。自分が死ぬことは覚悟していた儀三郎が予想していなかった、彼女の死でした。
「俺だって、信じていたんだ」
慟哭して、そして儀三郎は彼女の傍らで腹を切ってしまう。死に行く意識の中で彼は夢を見ます。かなえに好きだということを伝えて(実際にはかなえに言い当てられるので言えてはないんですが)、かなえが笑って、腕をとって自分を抱き締めさせて。
でも実際には、腹を切った彼はその場で手を伸ばして、手は近くに座らせた彼女に伸ばしたけれど、届かないままに落ちるのです。
あの夢は、夢なのです。決して叶わなかったいつかの未来の夢。


白虎隊自刃の日はグレゴリオ暦10月8日。北国では秋も次第に深まってきた頃でしょうか。次の春を揃って迎えられないのは、いつからかみんな気づいていた。
かなえの信じた「またあるその日」は、石部桜を一緒に見に行く日だったのだと思います。来年の春を願っただけの、とても小さな祈り。
でも彼らの上に春は二度と来なかったのです。

その日から十四年、貞吉はずっと苦しみながら生きていました。自分一人だけ残ってしまったこと、自分を生かして親友の、そしてずっと憧れていた悌次郎が自分を生かして代わりに死んでしまったこと。
そんな彼の悔恨を解きに、斎藤一はやってきたのです。
貞吉の苦しみは、彼に預けられた悌次郎の願いが彼に届けられることで解けました。その時再び、彼らの頭上から桜の花びらが散りはじめるのです。
そしてその中に、貞吉は白虎隊の面々を見る。

貞吉は十四年、長い冬の中にいたのだと思います。雪国の冬は長くて暗い。押し込められるような季節の中で長い間ずっと凍えてきました。
それは同時に負けた会津藩が新政府から受けた苦しみでもあります。不毛の地だった斗南に流され、餓えと寒さに死んでいった会津藩の人々が多くいたそうです。斎藤一もまた一会津藩士としてその中にあったと言われています。
彼もまた長い冬の時代を潜り抜けて、冬の終わりをもたらしに訪れた。

斎藤に託された悌次郎の言葉でようやく貞吉の冬が終わり、桜が舞い散る下であの日死んでいった白虎隊の面々が笑い合う。
いつの公演かちょっと定かでないのですが、儀三郎が茂太郎に「この桜、何て言うか知ってるか」と問いかけた回があります。
「石部桜って言うんだ」
またあるその日は、この世では叶わなかったけれど。貞吉がその夢を目にしたことは、彼のその後の長い人生にとって幸福だったと信じています。

ところでこの春の光景には、新撰組の二人はどちらもいません。
貞吉が見た夢なので、というのもあるかもしれません。白虎隊の憧れであった新撰組は、遥か高みを見上げるような存在でした。
だけれど土方歳三の背中に憧れたのは白虎隊だけではありません。斎藤はもしかしたら彼等よりも強く、憧れて、その背中を追いかけていた。
憧れの人に遺されたのは斎藤も同じです。

作中、貞吉が救われる一方で、斎藤にカタルシスの瞬間はありません。
傷がない訳ではないのです。何故ならば貞吉ー悌次郎と斎藤ー土方の構図が同じだからです。
お前は生きろと言い残して、憧れであった人が死んでしまう。その最期を消化できず、生傷のように抱え込んで生きている。
貞吉は悌次郎のことを神格化していました。彼の回想において悌次郎はいつも超然としている。斎藤の語る悌次郎はもっと年相応の、少年らしい顔をしています。
「憧れて、嫉妬していたのは俺の方です」
悌次郎も普通の少年だった。
その神格化の覆いを取って、悌次郎の本当の部分を貞吉に見せつけたことで、貞吉はカタルシスを得るのです。
斎藤にカタルシスをもたらした人はいるのでしょうか。
土方は五稜郭で華々しく散りゆきます。彼の存在を殊更に新政府が嫌ったのは彼が、代々農民の血筋の男が武士道をこの上なく体現してしまったからだ、という話を読みました。
彼はひとつの神様に、望んでなったのです。明治の世を生きる14年後の斎藤に、その様はいったいどう映ったのか。
貞吉のような穏やかな夢を斎藤に見られようか。
貞吉の傷を毎公演ごとに癒す一方で斎藤の傷はいつも生々しいままです。

もののふ白き虎、大阪千秋楽では台詞の変更がかなりありました。演出の西田さんの采配で、こういうの結構やってると聞きました。なんと恐ろしいことを。
死にゆく土方の言葉を斎藤が反復するシーン、この回演出変更がありました。
鉄砲の音が響き渡る最期の戦いへ歩いていく土方の背を、いつもは顔を伏せて、斎藤は見ません。でもその日、彼は土方を見ていた。
「土方さん、ありがとうございました」
拳を床につき、深く頭を下げて、その死出の背中をずっと送っていた。
斎藤は生傷をずっと抱えて生きていくのだろうと、その日思いました。
似ているけれど、貞吉と斎藤はどうしたって違う。
浄化なんか要らないのか。生々しいその傷の痛みこそが一人の人間の記憶なのかもしれません。

新撰組の面々が貞吉の夢にいないのは当然で、彼らの「その日」は別の場所なのです。
もし同じ春だとしても、石部桜とは別の花が散る場所。それが京都なのか、多摩なのかは分かりませんが。

白虎隊の憧れの人として現れる土方と斎藤は、どうしたって偶像的です。
等身大の新撰組の物語も観たくてならない。いつかやってくれないかなあ。

2015TRUMP印象の話: ソフィとウル、ラファエロとアンジェリコ

2015TRUMPについて、感想と印象と考えたこと(※妄想)の話。ひっくるめて印象トーク
脈絡がありません。

※観劇:T7(全通)R4(21,23,28,5)M1(26)


ソフィとウル

Tソフィはとても気高い子どもでした。
養護院育ち、というソフィのバックボーンはSPECTERで判明し今回反映されているわけですが、その環境で育った子どもが主人公になるならそうあるだろうな、という反骨精神と自尊心に満ちていた。自分を卑下するヴァンプに対してまっすぐ睨み返すのがなんとも彼らしさです。
ヤマアラシのような生き方だと思います。刺をまとった孤独。
Tソフィについては正統派主人公タイプだなあという感覚が大分ありまして、でもその強がりがどことなく子どもらしく、視野が狭い。
少年の不安定さが色濃く出ていたのは「これもみんな繭期のせいだ、」という彼の独り言でした。言い訳のような声音だと思った。彼はそうでない可能性が怖かったのかもしれない、自分の弱さや脆さを決して飲み込めない。
良くも悪くも自分の獲得した経験や知識、感覚だけを支えに立っている。まさに孤独で気高いとウルが評したそのままです。
でもそれは何も持っていないからの強さであり、無自覚に他人を傷つける刺だった。
「君は死ぬのが怖くないのか?」
多分怖くなかったのでしょう、彼は。

一方Tウルは若干不良めいた、柄の悪めな少年だったので当初びっくりしました。手が早くてちょっと荒れている、でも読書が一番の心の慰めというナイーブな素を持つギャップ萌えの塊。
言うなれば放蕩息子、貴族の次男としてはなくもないスタイルです。
ソフィをたった一人の親友と見て、他の生徒にどこかうんざりしているような雰囲気は、ソフィの孤高の姿とどことなくアンバランス。
ウルの厭世感は自分の運命の重さと他人の無理解によるのでしょう。その重荷の最たるものがデリコの名であり、地下書庫で彼は窮屈なフリルの襟元を何度となく引っ張って緩めようとしていました。
耐え難い息苦しさと、抑圧されたものの爆発の激しさ。
Tウルはとてもさみしそうな子どもです。書庫でソフィが共に永遠に、の誘いを断ったときの彼の声音は迷子のようだった。「かわいい女の子をたくさんだ…」はどこかネジの外れたようで、このTの後に来るだろうLILIUMを作ったのは彼のような気がしたのです、独りで数百年を生きたソフィではなく、10代の彼が。それくらいに果てしないさみしさを抱えていた。

ヤマアラシのようなソフィの強さをウルが羨ましいのは本当に切実でした。ウルはそんな風には絶対に生きられない、からこそソフィに憧れて、彼と友達になりたかった。
一方のソフィはその後の長い、長い時間で漸くウルのさみしさに追いつくのでしょう。そしてその時彼の言葉を代わりに果たす。かわいい女の子をたくさん。
LILIUMに至る道筋が透けて見えたようなペアです。


一方Rのソフィとウルは、とても強さを欠いたペアでした。

Rソフィの仕草で目につくのは体の正面で手をぎゅっと握り合わせる、というものです。何かを堪えるように、あるいは何かを庇うようにしきりに手は握り合わされる。モブ生徒に反論するとき、ソフィは彼らの方を見ませんでした。
目をそらして、背を向けて、手を握り合わせる。それが彼の本質なのではないでしょうか。
傷つきやすいナイーブさの結晶のような子どもです。何事もないふりをしているけれど、その内側に沢山傷を抱え込んでいる。彼はヤマアラシのようには生きられないのです、それは多分彼が寂しがりで、孤高であることに耐えられないからなのでしょう。その育ちによって彼が強めたのは尖った自尊心ではなく認められることへの枯渇でした。
「これもみんな繭期のせいだ」は、彼の場合恐れでした。自分の中に親友のウルを非難するだけの怒りがあることが恐ろしかった。ウルを傷つけてしまったかもしれないことが恐ろしかった。
彼はとても優しいのかもしれません、あるいは優柔不断なのかも分からない。Tソフィのばっさりとした拒絶と違い、ウルに対してもどことなくウェットな感覚がある。彼が自分を傷つけていることに対してもはっきり言うことができず、「君にも立場がある」と許してしまう。
友達なんか要らないよ、は自分への言い訳なのではないでしょうか。友達がいなくたって平気だという呪文。彼の雰囲気はどことなく、いじめられっ子的なもののような気がしました。
友達は要らないのではなく、いなかったのではないでしょうか。

Rソフィをいじめられっ子とするならRウルは傍観者です。八方美人で、ソフィを否定するヴァンプ達に対してもいい顔をしようとする。実際いたら絶対友達になりたくないタイプ。二人のバランスはものすごく完成されていたと思います、恐ろしく歪んだバランスでしたが。
ウルがそうであったのは彼の秘密が発端だと思いました。
一幕の、まだ容態が安定している彼は道化を演じているようでした。みんなにいい顔をして、芝居がかった振る舞いで笑いを誘って、その全てが嘘くさい。でもそれはデリコのために彼が隠さなければならなかった秘密を覆い隠すための芝居だったのではないでしょうか。
Tウルは限りなく反抗期的でしたが、Rウルは反抗期を多分知らないのです。ラファエロに手を引かれて歩いている時の「痛いよ兄さん、放せよ」が、もうものすごく甘ったれた声をしているんですよ…。彼は家族に愛されているし、それを分かっているし、ずっと愛されていたい。家族に関する比重がかなり大きい、けれど一方で秘密が露呈すればその全てを失ってしまいかねないという恐怖に苛まれている。
家族にすがり付こうとする一方で、彼がソフィに惹かれるのは彼だけには嘘をつかなくてもいいのかもしれないというところが大きかったように思います。

寂しがりの臆病者、がこの二人だったのだと思います。
友達のいなかったソフィはウルが隣にいることに上手く慣れられず、嘘で塗り固めたウルはその嘘でソフィが傷ついていてもそれを剥がすことができなかった。
さみしいソフィとヤマアラシのウル。ものすごくTの裏側だなあと思います。
RソフィについてはLILIUMに至らないのだろうなあという気がしていて、それは彼の優しさと臆病さによると思うのです。生まれ変わって3000年生きても、きっと彼はヤマアラシにはなれなかった。


ラファエロとアンジェリコ


Tウルの孤独について、彼を追い詰めた要因の大きな一つはきっとラファエロだったのです。
Tラファエロは山本さんが「ロボットのような」と評した通り表に感情がものすごく出てこない、ばかりではなく内面の感情の動きがうすいように思えました。もっとも私の感じた印象はロボットというよりサバンナのライオンなんですが、どちらにしても人間的ではない。
父から積み上げられた使命感を、義務を背負うためにそう育ったのでしょう。そしてそれを苦痛とも重荷とも思っていない。それは当たり前であったからなのだと思っています。ノブレスオブリージュという単語がまだ出てこないのが不思議なくらい(出てないよね?初演再演は観られていないのですが)TRUMP社会って封建的で、身分制度がものすごく重くて厳しい。家長のダリ卿が命じたことはラファエロにとって法律より重いのです。
彼は果てしなく貴族的な男でした、
ラファエロはとても強く、正しく、厳しい男であって、多分ヴァンプはこうあるべきという理想の姿だったのでしょう。その強さや正しさや厳しさがウルを追い詰めることに、でも彼は気づかない。
兄は分かってくれないーーというより分かってくれなくなった。拒絶と断絶が二人の間にはあります。ラファエロとウルの会話は会話ではなくて命令と受容(あるいは拒否)で形成されている印象がありました。
そして最期の時、ラファエロは誰を見ることもなく天を仰ぐようにして死んでいく。

ラファエロは多分以前はそうではなかった、のだと思っています。これはどのタイプのラファエロもそうなのですが、彼は変質した。
それを察するのはアンジェリコからです。

前回のTRUMPから関連作品が増え、今回追加台詞や演出変更もあったことでかなり印象の変わったキャラクターが多かったのですが、とりわけ衝撃が強かったのがラファエロ/アンジェリコ
D2版の感覚ではアンジェリコラファエロに対する感情は嫉妬と羨望と憎しみだと思っていたんですよね漠然と。
NU版、二人がかつてとてもよい友達だったことを初めて突きつけられて愕然としました。かつて夢を語り合い共に同じ未来を目指した過去が彼等にはあった。
アンジェリコの「親友として」という言葉は本当だったのです、少なくともある時期は。

Tアンジェリコラファエロとは別の意味で貴族的な少年でした。自分のために人が何かをするのは当たり前。そこはもう息をするように当然なので傲慢だとかそういう感覚ですらありません。まさに別世界の人。彼の場合ジョルジュとモローは家臣であり従僕です。
多分田村さんの素の部分もあるんですが、全体的に雰囲気が上品で、それもあいまって浮世離れしている印象が強かったので、あまり小憎たらしい感じではなかったように思います。そういう意味ではLILIUMのプリンセスマーガレットに一番近いタイプのアンジェリコ…あくまでも本人にはあまり悪気はない。クズ連呼の回数クイズを当てたジョルジュに対する褒め方が犬を褒める仕草そのものでたまらないですねこの人。ジョルジュは何故まんざらでもない顔をしているんだ。
そんなアンジェリコ、NU版では冒頭はかなり正気に近いような印象を受けました。貴族らしい浮いてる感覚はあれど、他のアンジェリコより言葉が通じそうだなあと。あくまでもアンジェリコ内での比較なので五十歩百歩の域かもしれない。
ともあれスタートはそことして、アンジェリコの繭期の悪化は劇中で進んでいくんです。
いつも舞台発声の、唄うような声のアンジェリコですが、その声がひきつって崩れるのがラファエロの名を口にする時でした。逆にウルを呼ぶときは殊更に唄うような声でその名を口にする。ラファエロだけが彼にとって特殊。
その声色の揺らぎが他のところに浸食しはじめて、貴族の少年らしさが次第に繭期に呑まれていって、それが最も煮詰まった到達点がウルを刺した後の狂乱です。
ところがうず高く積み上がった狂気はジェンガが崩れるように一瞬で崩壊する。後に残ったアンジェリコは茫然と呟きますーー「死んじゃだめだったんだ」。
まるで夢から醒めてしまったかのようでした。それまでの「あいつを殺してくれたことには感謝してるよ」であれば、傷つくこともなく死んでいけたのでしょう。でも今回、アンジェリコの長い夢は突然醒めてしまった。

ラファエロとアンジェリコはそれぞれの家名と、その跡継ぎである重圧に、彼らなりにまっすぐ向き合っていたのでしょう。
貴族ぶらない、ということは権利の放棄であると同時に義務の放棄でもあります。それは卑怯だ。彼等の血肉には義務が課せられているのです。より恵まれた生活を彼等が与えられて育つのは、いずれそれだけの重荷を背負うためです。
今回、特にTの二人はあまりに真面目すぎた気がしました。壁にまともにぶつかって砕けてしまう、そんな雰囲気。
一番残酷なタイミングで夢から醒めてしまうアンジェリコはそんなふたりの友情のクライマックスに相応しい。


一方のRでは、二人はもう少し「なんとかなったのかもしれない」感覚がありました。

Rラファエロが、もう驚くほど優しい。
ジョルジュの芝居のくだりで刺されたラファエロに対する台詞がT「見かけによらず優しいんだな」R「優しいのも考えものだな」なんですが、もうこの言葉通りですね。
Tラファエロがロボットのようだった男が顔色を変える、のに対して、Rラファエロは常時誰にでも優しい。学級委員タイプ、なのでしょう。Rウルのことを八方美人と称しましたが、彼が影響を受けたとすれば確実に兄からでしょう。ただラファエロは弟よりももう少し不器用。道化ではなくあくまでも学級委員、誰からも敬意をもって遠ざけられるふるまい方です。
剣術試合準決勝でラファエロが負ける時、上手側でショックを受けて泣いている生徒がいるので、結構好かれているんだろうなあと。でも誰にでも優しくする、ということは誰も特別でないことと同意義になりかねない。そういう意味でやはりラファエロは孤高でした。
アンジェリコと違ってラファエロの声は滅多に揺らぎませんが、ダリ卿に「期待しているぞラファエロ」と言われる時、彼の声は引きつったようになるのが観ていてたまらなく可哀想だった。喉に引っ掛かったような、喉元を絞められるような声。
ロボットになれなかった彼に、デリコの名とその秘密は多分あまりに重すぎた。
Rラファエロの断末魔は「ウル…!」の一声です。炎に包まれながら弟の方に手を伸ばして、そうして死んでいく。
徹頭徹尾優しすぎてどうにもなれなかった人でした。

Rアンジェリコは、アンジェリコなのに親しみやすい…!という謎の衝撃が第一印象でした。ああいうの、いるよね、全国の小学校にいるよねたくさん。ジョルジュとモローが対等っぽいのがまた新鮮です。悪友というかバカ友というか…お育ちはいいんだろうけどマッドマックス見すぎ。貴族の義務とかそういうことは頭にはあるけどあまり重く考えていない雰囲気でした。
クズ連呼で自分の言った数が自分で分からない子なので「正解!」は彼の場合モローが言います。なるほど!って顔をするなアンジェリコ様。
ラファエロに目潰し食らった後のミケランジェロとの茶番劇がナチュラルにマザコンだったり、「バーリア!」だったりどうにも残念なんですけど憎めないタイプ。バカな子はかわいい。
でもその憎めないアンジェリコの狂乱の爆発力は恐ろしいんです。あれは多分山本さんの振り幅の振り切れ方がおっかない。
東京Mの一度だけなんですが「僕が殺したかったのn違ァう!!!!!!!」って絶叫したのがものすごく印象に強いです。
良くも悪くも感情が拗れていないというかダイレクトに出てくる感じでした。
「死んじゃだめだったんだ」も本当にただただ友人を悼む自然な空気で、その切り替えがいっそ怖かった。
彼の場合は夢から醒めたというより繭期で感情の起伏が不安定な印象でした。ずっと友人だと認識しているのにあっあいつ刺そう、って思っている。そのまま一連の流れで自分が刺させた男の死を悼んでる。
Rアンジェリコの断末魔は途中から「ラファエロォー!」になったんですが、これ最初はなかったので誰が変えようと言ったのか…。ちなみに一緒に燃えているジョルジュがTだとアンジェリコに手を伸ばすんですがRは特にそういうことはなく。
自分で見てはいないのですが東京楽Rでその後逃げ惑う生徒たちの中にアンジェリコを呼んでいる生徒がいたそうです。この人も多分結構みんなに好かれていたんじゃないかなあ。
その生徒がアンジェリコが死んだことを知らないまま彼を探して逃げ遅れて死んでしまうのではないか、ということが不安の種。

Rはラファエロがナイーブ優等生なのでアンジェリコがちょっとおバカで考えなしなのがすごくしっくり来て、この二人が親友、というのがすごく自然な空気感がありました。実はバランスがいいのですよね。
地下書庫の喧嘩もアンジェリコがそんなにピリピリしておらず、ラファエロが拳で来ないのもあってちょっとじゃれているような子どもの遊びのようでもありました。
少しこちらの二人の方が幼くて不器用なのかもしれない。
ラファエロもアンジェリコもTに比べて周囲とうまくいっているタイプで、それでもどうしても譲れない大切なものがある時その周囲が見えなくなってしまった。こんなに情が深くてナイーブな二人がいたことに衝撃を受けるばかりでした。

イニシアチヴによりラファエロが燃えている時、彼が消えるまでの間、照明はラファエロに絞られています。
この時TRともに、暗闇の中でアンジェリコラファエロに手を伸ばしているのです。再び照明が彼に当たる時そんな事実などなかったように手は下ろされている。

COCCONが観たいなあ、と思いながらずっとそれを観ていました。


本当の狂人は自分が狂っていることに気づかない

冒頭の老人の台詞を何度も聞きながら、それは誰の話なのか、を考えていました。

繭期だから仕方がない、という言い訳をするソフィ/ウルのふるまいは実はそれが原因ではない、という構図。ソフィがウルを突き飛ばしウルが死にたくないと喚くそれは彼等の一過性の状態によるものではなくて、ウルの宿命、ソフィの生まれ、そういったものによります。でもそれが狂乱であることに気付いているから繭期だから、という言い訳をする。
言い訳をする、というのは違和感や罪悪感や、そういったものを見ないふりをするための行為です。見ないふりをしている以上見えてはいるんだ…。
彼等は狂いきれなかったのだと、最後に二人が揉み合うシーンで感じました。

ラファエロとアンジェリコは老人の言う狂人だったのではないでしょうか。
箱庭たるクランが壊れていくのは二人の行いからなんですよね。「お友達」を作ったアンジェリコ、ソフィを噛んだラファエロ。それがなければTRUMPはその力を使うことはなく、ソフィはもしかしたらそのまま卒業していけたのかもしれない。崩壊の最初の引き金を引くのがこの二人なのは、彼等の繭期の状態がとりわけ芳しくなかったからでしょうか。
繭期のヴァンプは物事の判断が曖昧になる。彼等は自分の行動が正しいと信じていました。
自分が狂っていることに気付いたらそれは狂気の終わりの始まり、なのだそうです。

T↔Rの入れ替わりでラファエロであった人がウルであった人を蹴りつけながら「全部お前のせいだ、」と喚く構図が成立することがとても恐ろしいなあ、とずっと思っています。
それがもしラファエロの本心であったなら。
狂気の自覚のない二人は、自分自身の姿も見失っていたのではないか。それが裏返しの反対側に、いびつな形で現れたのではないか。

もしも彼等の繭期がちゃんと終わっていたらそこにいたのはどんな人だったのでしょうね。

繭と血(TRUMPのたわごと)

繭期は何故「繭」なのか、が気になっていたんです。
日常生活で繭ってなかなか聞かなくない?そうでもない?地元がかつて一大養蚕エリアだったので私はとても馴染みはあるんですが日本全体としてはどうなんだろう。

繭期って主軸では語られないながらかなりメイン設定なのにあんまり詳細分からないなあというのも合わせて訥々と考えていたので備忘録的に。

当然のことながらこうだったら面白いかなあ程度の妄想ですのでどうか話半分にひとつ…。


繭の中の蛹の中で

ーー繭(まゆ)は、活動が停止または鈍い活動状態にある動物を包み込んで保護する覆いをいう。(Wikipediaより)

成長期=繭期とした時にうん?と最初に思ったのはその中には蛹があるはずだよなあということでした。先に述べたように蚕に割と馴染みがあったので。
調べてみたら案外いろんな生き物が繭を作るので必ずしも中に蛹が、というわけではなかったんだけど!
ただ末満さんがTRUMPシリーズに上げていたタイトル「COCCON」の和訳が「蚕などの繭、蜘蛛の卵嚢」だったのでここにおける繭は蚕の繭的なものだという仮定で進めます。

繭期は人間でいう思春期だと説明されています。
思春期の特徴は第二次性徴期の現れ、生殖が可能になる段階。
翻って昆虫は蛹化し変態して成虫になることで生殖が可能になるのでここは並びうるんだなあと。言葉だけ見てるとちょっと不思議な気がしますが。

昆虫の成虫化には2パターンあって幼虫がそのまま脱皮を繰り返して大きくなる「不完全変態」と蛹の中で一回体の構造が全部崩れて全く違うものになる「完全変態」があるんですけども、ヴァンプの成長過程を繭の中の蛹とすると彼等は完全変態する生き物であってじゃあ不完全変態は、と思ったらそれが人間なのではないかと。

ダンピールが大人になれない(繭期を越せない)のは、完全変態と不完全変態の部分がどちらもあるとすれば自然なんですよね。人間としてもヴァンプとしてもその成長過程に不具合が出る。
完全/不完全ハイブリッドってセミと蝶の混血みたいなものになるんですが(比喩が雑)、そんなのどうやって成虫になったらいいのか…。

ところでLILIUMのマリーゴールドは繭期の兆候が現れるまで人間の里で暮らしているんですよね。
でもヴァンプの食事は血を主とする訳で(SPECTERパンフレットより)、じゃあマリーゴールドはそれまで食事をどうしていたのか。養護院もあるだろうし彼女の母親も積極的にマリーゴールドを育てたかった訳では(少なくとも途中からは)なかったので、生きていくのに不便ならば人間の里にいる必要がないと思うのです。
三食家畜を殺して血を飲む生活は流石に無理がある。

ではマリーゴールドはそれまで人間の食事で生きていられたのではないのだろうか。

ヴァンプに繭期の兆候が現れるとき彼等は初めて吸血種になるのでは?

蛹の中で一度どろどろの液体に崩れて、それが全く違う構造の生き物に変わる。繭の内側で起こっているのはそれであって、ヴァンプはその繭の中で吸血種になってゆくのではないかと思いました。吸血種として覚醒する過程でまだ血の渇望が制御できないからひとところに閉じ込めて管理する。
ダンピールはこの「完全変態」が訪れるかどうか分からないから、兆候が現れなければ人間の中で暮らす道があるのかもしれません。

TRUMPの発生

TRUMPが人間の間に生まれた突然変異種、という恐ろしい話が今回パンフレットで出てきました。
人間を祖とする母集団に突然発生した不老不死の吸血種。言ってしまえば彼は人類の亜種です。

今回TRUMPを観劇していて漠然とした印象を受けたのは「クラウスは元々人間なのではないか」ということでした。
つまるところ先天的突然変異種ではなく後天的である、という感覚。

因果と業が輪廻するTRUMPシリーズの構造においてクラウスは死せる運命の者だったソフィを不老不死にし、ソフィはリリーを不老不死にしてしまう。
その因果が変形せずにダイレクトに繰り返されるのであれば彼もまた「不老不死になってしまった」ものなのではないか、と思ったのです。

クラウスは彼をそうした者について「神」と言っていました。ソフィやリリーのように直接呪うべきものは、だから彼にはいないのかもしれない。
それこそ神の気まぐれで不老不死に変えられた怪物、くらいの立ち位置だっていい。

その突然変異種から全てのヴァンプは生まれています。



一回まとめますね。

仮定① 繭期は単語の元来の意味から蛹化のニュアンスを有する
仮定② 蛹化によって蛹化した個体は「完全変態」する
仮定③ ヴァンプは血を食事として生きるが幼少期はそうでない個体の存在が確認されている
→「ヴァンプは繭期を迎えると吸血種として覚醒する」
「始祖TRUMPがソフィ/リリーについて因果の繰り返し構造を有する、つまり後天的不老不死化のエピソードを持つのではないか」


繭期の終わりと永遠の繭期

LILIUMで出現してTRUMPにリダイレクトされた「永遠の繭期」という言葉の始まりについて友人とつらつらくだをまいていたあたりでこの話をしていたのですけれども、それはTRUMPから始まった慣用句なのではないかという辺りに落ち着きをやや見せました。
つまるところクラウスの3000年とは永遠の繭期。

繭期が終わるとヴァンプは安定期を迎えるということですがクラウスの挙動はまあ大概安定からは程遠い。クラウス―ソフィ―リリーの構造が相似になるのであればクラウスは二人と同じく繭期のヴァンプであるのが妥当でもあります。

クラウスは不変の繭期。
かつていた不死のヴァンプもクラウスが自分に似せて作ったのであればそれに等しいものだったでしょう。

ヴァンプが不死を失ったとき初めて彼等は繭から出ることを覚えたのではないかと思います。
安定期になることが思春期/蛹化の終わりだとするとその時期は生殖の為の時間となりますが、不死の生き物としての集団に生殖は必要ではない。彼等には代替わりも必要ではなかったのです。不死を失い代替わりが必要になって初めて彼等は繭を出る必要性に目覚めた。

繭期を終えたヴァンプはその時完全にTRUMPの膝元を離れていくのではないか。
逆に言えば繭期の間は誰もがTRUMPに近しいのだとすればクラウスの書庫での言葉が途端に恐ろしいのです。

「ここにいる皆さんがTRUMPなんです」

その前の言い様からすると、続きだってただの慰めではないような、そんな単純な生き物ではないような気がしてならないのですクラウス…。



繭は中の蛹を外界から隔離して守るかくれがです。
完全変態の途中で一度どろどろの液体にまで崩れる蛹は、振動を与えただけで中身が壊れて死んでしまう。
それはだから蛹期ではなく繭期であるべきなのかなあと思うと同時に、繭とはきっとクランという箱庭でもあるのだと。
蚕は広々とした空間に放り出しておいても繭を作れないんです。小さく仕切った小部屋に入ってその中で繭を作る。
クランはクラウスの心の慰めでもあり、彼が自分の末裔たちのために設えた揺りかごでもあったのかもしれません。

風が吹けばゆりかごは落ちるのに。