ここは浅瀬です。

主にうわ言を述べる人のうわ言用ブログ

SH考察「楽園と世界について」

[chapter:1 楽園について―Elysionを中心に―]

 ・キリスト教文化圏

 4thStoryCDであるElysionはそれ以降のアルバム作品と異なり、国家(地方)、言語、時代があまり固定/明示されていない。俗に一期と呼ばれる時期のアルバムはこの傾向が強いが、Elysionに関して全体を通じて存在する世界設定が何かあるかと考えると、楽園思想及びキリスト教文化ではないだろうか。楽園思想に関しては表題が「楽園幻想組曲」である点から既に指摘できる。またキリスト教文化に関してはアダムとエヴァ、エデンのようなエルの側の曲に現れるモチーフが分かりやすい。またArkの箱舟信仰、Sacrificeのカトリックの村(神父はカトリックにおける司祭の呼び名)などがあり、またBaroqueに関してもタイトルの元であるバロック主義がカトリシスムの芸術活動であったためキリスト教文化の中でもカトリックの文化の元にあると思われる。
Elysionキリスト教文化圏における物語であるという事から二つの観点が発生する。
 一つはこの作品の楽曲が「恋物語」とされている事のキリスト教的意味である。ArkからStardustまでの五曲が成就しない恋物語である事は明確であると思うが、それだけでなくアビスとエルの関係性も本来恋物語であると私は考える。何故なら肖像でアビス=アダム、エル=エヴァである事が書かれているからである。アダムとエヴァが初めの男と女であり、また人間で最初の恋人であることはご存じかと思う。父と娘という形に変形しているがアビスとエルは本来恋人なのである。
 ところがこの恋物語キリスト教文化圏にある時、総じて罪悪である。といっても恋の末に誰かを殺す事がではなく、恋をした事自体が罪悪なのである。
 キリスト教文化及びそれに基づくヨーロッパ文化は自由恋愛に比較的寛容でない。教義に父と子というシステムを取り入れているため家族構造の維持と家父長への従属が宗教の中に大枠として存在するからである(教会は家であり司祭が父であり信徒が子である構造)。そのためキリスト教では結婚を秘蹟(サクラメント)としており、近代までは自由恋愛を認めていなかった。あくまで結婚と家族化であり、自発的・放埓的恋愛は背徳である。恋愛をして結婚をしないという形は家族構造に依る教義の否定になるため忌避された。
 結婚によらない恋愛は悪である。これは性愛(=豊穣)を要素として持つ他宗教にはあまり見られない観念であり、このキリスト教的恋愛観念に基づいて考えた時初めて恋物語は結末でなくそれ全体が背徳であり、故に退廃=堕落へ至る。彼らの愛情は予め世界の枠組みから否定されているのである。
このためElysionの世界設定は背‐キリスト教世界である、と言う事もできるだろう。キリスト教概念不在の異教の世界ではなく、まず大元にキリスト教的思想があり、人物がそれを理解した上でそれに背信している。
 また楽園は二種類あるという点についても、このキリスト教とその背信において解釈する事ができる。二種類の楽園とは表題にもあるエリュシオンと肖像でのみ明言される、キリスト教世界におけるエデンである。

・エデンとエリュシオン

 原初の楽園エデンの物語は旧約聖書創世記で語られる。失楽園、原罪と追放の物語である。エデンに植えられた知恵の木の実をアダムとエヴァが食べ、神に匹敵する知恵を得た。これをキリスト教では原罪=あらゆる罪の根元とするが、恋愛の禁忌性に関してもこれは関係してくるのではないだろうか。キリスト教において女性が殊に軽視される根源は楽園追放のきっかけを作ったエヴァの存在にある。
エルの肖像にある「楽園を失った罪」は文脈から知恵の実を食べた事そのものではないと考えられるが、原罪の問題点は知恵を得た事自体ではなかった。神とアダムの間にあった約束が破られた事、エヴァとの関係を約束よりもアダムが重要視したことである。原罪は恋によって行われ、全ての罪は恋に起因した。最初の人アダムは恋によって神に背信したとも考える事ができる。
 もっとも、楽園喪失は神の計画でありいずれ必然であったとする考え方もある。楽園におけるアダムは全ての動物と植物を支配する権利は持っていたが、神の庇護化にあり、子供であり、独立した自我を未だ持たなかった。背信によって知恵を得、楽園を追われた彼は神から自立し、自発的に何かをする事ができるようになったとも考えられる。また全人類に付与された初めの背信たる原罪は、いずれ救世主の到来と犠牲によって贖われる事が予定されていた。神学では知恵の木はキリスト磔刑の十字架の予見として扱われる事が多く、同じようにアダムはいずれ来るイエスを予兆する。原罪はいずれ取り去られ、その際に人間は自発的な意志によって行いの善悪を選択できるようになる。
 ともあれ楽園は人間の自発的な歴史の始まりの地点で既に失われている。エデンは剣を持った天使に警備され人間はそれに近づけない。エデンは世界から切り離され、人間は荒野で暮らすこととなる。
 ところがElysionではここに別の楽園であるエリュシオンが出現する。エリュシオンは死者の楽園であり古代ギリシャの文学作品に多く見て取れる。紀元前8世紀頃は西方の島とされていたが紀元前1世紀頃になると場所が変化し、地下にあるとされるようになる。ギリシャ神話に属しているので旧約聖書新約聖書の中にはエリュシオンは存在していないが、実際の歴史ではどうあれElysionの世界史においてはエデン喪失の後に発生した楽園である事は明らかである。創世記においてアダムから数えて十代目、ノアの誕生と前後してアダムが死ぬが、ここに寿命に関する記述がある。知恵の木の実を食べた為に人間はその日の内に死ぬ事になった、と(天界の時間での一日で、失楽園からアダムの死までに地上では千年が経っていた)。エリュシオンが死者の楽園である以上、原罪による死の獲得が起こった後でなければ考えられない楽園である。人間は寿命と避けられない死を知恵、自由と共に得た。
なお第四の地平線が「痛みを抱く度に生まれてくる悲しみ」とされるのもこれに関係した言葉だと考えている。原罪の後に神によってエヴァが出産の痛みを与えられた事が創世記からの人類史における最初の苦痛であるからだ。ちなみに旧約聖書においてエヴァの死に関しては記述がなく、彼女がいつ死んだかは定かでない。
 このエデン→エリュシオンの変遷を見ると、Elysionにおいて楽園が求められる時、これが死者の楽園エリュシオンである事は明らかであろう。そして恋物語を生きるのと同じように、アビスやエルや少女達がエリュシオンを描くのは自発性の獲得の故であり、原罪の産物でありまたその選択も罪である。
 荒野に放逐された人間がエリュシオンを描く時、彼らはその度に背信を重ねている。何故ならElysionはあくまでキリスト教原理に乗っ取っている世界であり、そればかりかエルとアビスは原罪を犯した張本人であり罪人の始まりでもある。しかし「時の荒野を彷徨う罪人達」はエリュシオンというもう一つの楽園を信仰し、作り上げてしまう。エリュシオンは少なくともキリスト教的神が与えた楽園ではない。
 死者の楽園であり楽園=奈落であるからエリュシオンはSH世界において冥府と等しい世界である。地下にあり、死後行く場所であり、魔女とラフレンツェを見るに階段で地上と接続している(扉は閉ざされていたが開いた)。ただし魔女とラフレンツェは絵本の中の話であり実際にエルやアビスのいる世界で起こったことかというのは明らかでない。しかし地下世界エリュシオンの存在自体は、アビスとエルを起因とした楽園追放の後物語世界で実際に発生したものであると考える。
他のアルバムにも下方にある死者の世界の概念は存在し(珊瑚の城「楽園は墜とされた」、井戸の底の異土――ドイツ民話においてホレは冥府の女王であり、井戸の底は彼女の王国である)、またアルバム間に世界が共通である(将軍他人物の共通、またテーマ的フレーズの共有)。Elysionで語られた物語は大きな時系列の中に位置し、他の地平線世界の概念の起源でありうる。
墜ちた楽園であり死者の国ではあるが、ともかく人間は神に背を向け荒野に出て、そこに楽園を得たのである。ABYSSという単語には地獄という意味はないため、奈落は地獄ではなく深淵、下方の昏い場所である。よって天国‐地獄の対称における地獄を誤認したものではなく、エリュシオンはキリスト教的二項対立の外側にある。
荒廃した闇の底であり、地下の死の世界であってエデンと隔絶した別種の「楽園」であるエリュシオンは、劣りはするが背キリスト教者にとって自ら獲得した、最早一方的に奪われない楽園である。
 創世記という歴史から、二つの楽園が発生した。ところが人間はここに停滞しない。楽園に関して見た時、その最たる人はアビス=アダムである。

 ・アビスとエル―死の克服の試み―

 エル=エヴァはどうやら予め死んでいるらしい事がElysion全体から見て取れる。胸の痛みによって春から遠ざけられる彼女は常冬に固定していると思われる。冬=停滞、死である事は文学や民間信仰の中で明らかである。また楽園sideEのPVにおけるエルは人形であり、アビスが粘土からこれを作っている。しかし彼女は崩壊してしまいアビスには崩壊を阻止できない。壊れた人形エルから魂のような像が抜けて扉の向こうの楽園へ至る為、人形エルは命を持った人形である。
 粘土から命あるものを作るというアビス―エルの関係性は創世記の中に見られる創造のオマージュであると思われる。神は土塊、即ち粘土からアダムを作ったのである。
神が行った創造の奇跡を、アビスが自らの手で行う。PV冒頭に見られるフラスコの中の小人の図像を見ても、アビスは生命の創造を実際に行っているものと思われる。この想像は魔術的な要素よりも科学的な要素が強いのではないだろうかと思う―科学は宗教と対立し、錬金術は魔術の科学化したものである。
アビスのこの想像にElysionにおける背信の概念が深く関係している。神に背いた結果得た死という苦痛を、アビスは自らの手で克服しようとしているのだ。
彼は長く持たない人形であるとはいえ少女の形でエルを得ており、アビスはこの点において神への成り代わりに成功している。肖像のタイトルである「八つの誕生日」、「もうすぐ約束した娘の・・・」、傷付いて死にかけたアビスの帰還とエルの崩壊というPVの内容からエルは八つの誕生日を迎える直前に崩壊を遂げるらしい。しかし逆に言えばアビスの創造した人形エルは丸七年生きていた事になる。宗教観の中には年齢を追って行う儀式があるが、中世において七歳とは堅信礼を行い聖体拝領ができるようになる年齢である。つまり七年という歳月に幼児期からの成長による人間性の完成を見る事もできる。
アビスは父であり創造主である神を越えようと試み、エルの崩壊と自らの死を迎えてもそれは留まることがない。アビスは反復するElysion世界で死に反逆しようと試み、その一つの結末としてあるのが楽園パレードであると私は思う。
 楽園パレードでアビスと一行は夕陽に背を向ける。日出が誕生であり日没が死である事はSHにおける朝と夜のイメージにも窺え、また文化表象においても確かである。パレードにおいて終焉はあくまでも仮り初め、死は世界からの解放である。この楽園パレードに関しては後にもう一度述べるとする。
 なお、エルがアビスを待つあの部屋について、私はそれが生と死の狭間の空間にあると考えている。始まりの扉と終わりの狭間――アビスが水底に鍵を掴もうとした以上それは沈んだ場所であり、しかもエルが更に墜ちていく余地がある為死に完全に傾いてもいない。そこは骸の男イヴェール・ローランが留まっている空間であり、またメルヒェン・フォン・フリートホフとエリーゼが存在する場所であるだろう。

 ・銀色の髪と緋色の瞳

 ところでエルやラフレンツェは何故銀髪に赤い瞳のアルビノなのであろうか。SH作品において髪の色や瞳の色はその人物の性質を表していると考えられる(Moiraにおける紫色の瞳=死や白い髪=運命の白い糸のモチーフなど。なおyokoyan画によるエレフセウス・アルテミシアの紫色の瞳は菫色ではなく赤紫であり、色素的に虹彩の色として通常でも色素異常のパターンでも発現しないはずの色である)。アルビノ的外見の登場人物は他作品にも覗えるが、この意味が作品中で明言された事は現在のところない。
 ところで、聖書の中にアルビノ的容姿として書かれる登場人物がいる。ノア、救世主イエス、そして神そのものである。神は人間の形を取って現われる時「白き人」であり、イエスは救世主として覚醒するとその外見描写が白化する。また特にノアに関しては旧約聖書外典エチオピアエノク書において「肌は雪のように白く、またばらの花のように赤く、頭髪、ことに頭のてっぺんの髪は羊毛のように白く、目は美しく」と記述され、アルビノ(病名としては先天性色素欠乏症)の症例でもっとも範囲の広い眼皮膚白皮症と似通っている。
アルビノ的外見である神/イエス/ノアの三者に現れる共通点はその神的性質である。イエスは神の息子であるし、またノアはアダムから数えて十代目の人間の父を持つ人間であるが、同じく旧約外典ヨベル書ではその母ビテノシは天使と人間の娘の間に生まれたネフェリムであるとされる。
 エル=エヴァであるから、彼女はアダムの骨から生まれてはいるが神の手で直に作られている。またラフレンツェの誕生がMärchenで提示されたアルテローゼの呪いによるものだとすると野薔薇姫‐ラフレンツェは一種の処女懐胎である。処女懐胎は神と関連性を持つ(この場合産まれた子供の父親は神となる)。
またアビスは外見年齢からするとそれほど高齢ではないにも拘らず白い髪をしている。瞳の色は不明だが仮面を付けている点から、これも赤ではないかと私は思う。イエスやノアがアルビノとされ、また白い動物がその希少性から神性を持つと見られる(イエスのシンボル動物には白化個体の白いテン(アーミン)がいる)一方で、中世頃から近代に至るまでアルビノは障害であり、穢れでもあった。時には罪の子供とされ、市井にアルビノの子供が生まれると殺されるか見世物小屋に売られる事例が多い。部屋に閉じこもる人形エルや祖母以外を知らなかったラフレンツェと異なりアビスは人間社会に接して生活をしているため、赤い瞳は隠さざるを得なかったのではないだろうか。
 なお色素欠乏は全身だけでなく肌のみ・髪のみ・虹彩のみなどの発現パターンがあり、その色素量の程度によって色合いが変わり、虹彩の色素が少ない状態では青になる。ルキアの銀の髪/青い瞳もこの類だとすると、彼女の親がどうあれ「黒の神子」と扱われる理由はここに関係するのではないかと思う。
黒の神子の外見的特徴にアルビノ性があるのではないかという推測については、またChronicle2ndのジャケット右側の、白を基調とした色彩で描かれた子供達についても考えられる。ただし彼等は一貫してセピアがかっており、またその色合いの濃さから白髪でないだろう人物も何人かいるため、これはあくまで参考程度のものかもしれない。


[chapter:2 世界について―歴史の予言書と物語―]


・世界構造

 楽園について前項で述べたが、ではこの楽園を望む世界とは一体どういったものなのか。地平線=物語世界というSHの世界観の中で大枠である単語からまず考えようと思う。
現在地平線の名と通し番号を持つものにはChronicle~Märchenのアルバム七作品がある。シングル作品である少年は剣を・・・/聖戦のイベリア/イドへ至る森へ至るイドは地平線としての通し番号を持たないが、聖戦のイベリアに関しては写真集Iberiaで「物語と運命の狭間の地平」と表現されており、また少年は剣を・・・では少年によって「第五の地平線の旋律(ものがたり)」が口ずさまれる。イドへ至る森へ至るイドがMärchenに繋がる事は音楽の繋がりから明確である。そこでシングル作品の世界のあり方は二つの地平線の合間、「狭間の地平線」形式であるとする。Picomagicの名を持つ二作品、Elysion前奏曲に関してはオムニバスの色合いがあり、また独立していた世界観を持つようにははっきり語られていない為この項では解釈に含めない。またChronicle2ndに関してはChronicleのリメイクであるため通し番号付きの地平線に準じる。
 物語世界という大きな概念の中に【地平線】【狭間の地平線】の二通りの世界の形がある、という事である。
では地平線とは何であるか。また何故地平線=物語世界なのだろうか。
地平線という単語は一般的に「1.視界の開けた平野で、大地と天との境にほぼ水平に見える線。2.観測者を通る鉛直線に垂直な平面が天球と交わる大円。」というように定義される。またHorizonに関しては「1.地平線、水平線。2.(認識・知識などの)限界、範囲/視野」である。地平線=(ある範囲の)世界であるという観点は主にこれらの2の意味から成るのではないだろうかと思う。つまり各作品はある観測者(主人公)を中心に置いた大円状の世界であり、またその世界の形は観測者の観測できる限界範囲である。
この世界構造は地球が球状であると考えられる前の時代、ごく当然に信じられていた盤状の世界構造に似ている。
 第一~第七の地平線において各曲またはアルバム全体を表現する単語には次のようなものがある。
Chronicle:歴史・黒い書・黒いクロニクル・物語・頁
  ―2nd:幻想物語・黒の予言書・記憶・歴史・物語・頁
Thanatos :幻想・風景・玩具・悪夢
Lost   :幻想・記憶・物語・詩
Elysion :絵本・恋物語
Roman :物語・幻想物語・詩・旅路・旋律
Moira :物語・神話・叙事詩・詩
Märchen :物語・復讐劇・唄・童話・劇
これによって地平線の世界構造を解こうとすると大きく分けて二種の構造が発生する。書籍構造と入れ子構造である。

① 書籍構造―頁の中の物語

 世界観を表現する際に顕著に多用される単語は物語であり、次いで本の形式を持った諸表現がある。幻想物語という単語より幻想と物語が意味合いにおいて同じ方向性を持っているとすると、地平線世界に顕著なのは物語/書物としての世界の表象である。
 地平線は書籍様式を持つ。地平線が平坦な盤状世界であるならば、この平坦な世界はまた開いた本のページの上にあるとも考えられよう。各曲にページあるいは章としての性質があり、結果一枚のアルバムが一冊の本として機能するのである。この書物構造に関してはChronicle2ndやMärchenのページを繰る音、Märchenコンサートにおけるページの捲れる演出などに顕著であり、また一次作品ではないがRomanのコミック版における一冊の書籍としての幻想物語にも見られる。アルバム全体が本の中/本の上の物語である。
世界が書籍の様式をしている事で起こる出来事としては反復が考えられる。
反復性は地平線番号を持つ作品全体に共通して現れる性質である。逆再生によって最初へ戻る、最後の曲が最初の曲の冒頭へ繋がる、あるいは曲中に物語が廻るべきであるという世界観が示唆される。物語はループしている―これは世界が書籍であるとされる以上必然の出来事である。一度読んで閉じた本は再び開かれれば全く同じ物語を読者に提供するのだ。
一方、この書籍様式を持たない作品として存在するのが狭間の地平線である。少年は剣を・・・、及び聖戦のイベリアは曲/世界観構造として書物というよりも唄の性質が強い。またこの二作品は作品中に反復性を持たない。聖戦のイベリアにおいて語られる「書の歴史」や「争いの歴史」は作品中で阻まれ、争いが終結した事で作品範囲内において変更を得るものと考えると地平線と狭間の地平線の性質の違いは顕著である。
狭間の地平線は改竄の可能性を持つ。
また少年、聖戦の二作品においては「去る」という出来事が起こる。少年は去り、悪魔も去る。彼等がどこへ向かったのかは定かではない(悪魔は去った際に死んだのではないかという疑念がIberia中で示されているが未確定である)。書の歴史の阻止というイレギュラーの発生と共に、反復性を持たない彼らは狭間の地平線から去る。この去るということの意味については後の項に述べる。
なおイドへ至る森へ至るイドに関してはMärchenへダイレクトに移行する形式であり、地平線Märchenと一体となって反復・永続性を生じさせる。

② 入れ子構造―頁を捲る読者

 書籍と書籍を読む者が存在している顕著な例としてはMoiraやMärchenが挙げられる。ズヴォリンスキーは叙事詩エレフセイアを紐解いて神話の時代を蘇らせ、エルは絵本を開いて世界の起源と(仮初めの)終焉を見る。井戸のほとりに落ちる本を開くのは幼少期のグリム兄弟と思しき子供達であり、開いた事で童話は再生される。
観測者という意味におけるRomanにもまた、本としてではないが外側の物語と内側の物語がある。双子人形は物語を観測し、イヴェールの誕生に繋がる物語を探す。
Elysionの構造は他作品の入れ子構造と少し異なっており、書籍世界と観測者世界が歪んで入り組んでいる。ArkからStardustまでABYSSの頭文字を持つ五曲はアビスの述懐から始まり、彼の来訪によって終わる。少女達の恋物語に対しての観測者アビスがおり、彼が介入する事で彼女達の恋物語は月並みに終わることを阻まれる。一方エルの~という名を冠する四作品においての観測者は不明であるが、アビスを他者として観測しており彼の死を述べるもう一人の視点がある。PVにおいては「エルの絵本」を読むAramaryという構造が取られている事からも、個人として明言されていない読者Aが存在すると思われる。他作品の入れ子構造における観測者とはこちらの観測者が近しい。
地平線―観測者と観測者の生きる世界―書籍世界(作中作)という入れ子形式によって、書籍構造に見たループの様式は複雑化する。書籍構造の性質通り地平線がループするためには、観測者がまた書籍を開かなければならない。つまりループの際に、本を開く側も反復の中に巻き込まれているのである。書籍が読者に物理的影響を及ぼすという、ある種の魔術的な様式が成立している。
入れ子構造において特徴的なのは観測者―書籍間の時間の隔たりである。ズヴォリンスキーのモデルは叙事詩トロイア」を元にトロイア遺跡を発見したドイツ人考古学者/実業家シュリーマン(1822-1890、トロイア発掘1873)であると考えられ、またグリム童話を編纂したグリム兄弟の時代もこれに近い。(長兄ヤーコプ1785-1863、次兄ヴィルヘルム1786-1859、末弟ルードヴィヒ1790-1863、グリム童話初版発行1812)。
一方作中作としての書籍の記された時期は明確にならないが、例えばイドへ至る森へ至るイドにおいてはルートヴィング家とヴェッティン家の対立、Märchenではドイツ農民戦争宗教改革など時代が特定されるモチーフがあり、また農民戦争におけるゲーフェンバウアー将軍の名から聖戦と死神/見えざる腕などとのある程度の時代の近似が見られる。これらの著作が記されたのが概ね中世であることは推測される。
叙事詩エレフセイアに関してはあくまで幻想ギリシャであり、実際のギリシャにおける逸話と関連性はない可能性もあると私は考えている。地の文が敢えて英語である事、PVで死神が大鎌を持っている事(十五世紀以降)、回転木馬という単語(十九世紀フランスにて発明)という点からおそらく十九世紀の英語圏、または英語に詳しい人物の創作物なのではないかと思う。
観測者―書籍の間に時間的・次元的距離がある。ところが反復は観測者と彼または彼女が読む書籍の二つの時間を一つの流れとして反復するから、ループの基礎は観測者の側にあると思われる。Märchenコンサートのグリム兄弟の演出に顕著であるが、観測者は何故繰り返し書籍を開くのか。
ここに「歴史」という存在が関与しているのではないかと私は考える。

 ・「物語」と「歴史」

 「歴史」という言葉に関して、黄昏の賢者にあるサヴァンの言葉に注目したい。
「繰り返される『歴史』は『死』と『喪失』、『楽園』と『奈落』を巡り、『少年』が去った後にそこにどんな『物語』を描くのだろうね?」
 カギ括弧を付けた部分はCDの事を示していると思われる。ところがこの台詞において歴史、つまりChronicleは他の地平線(及び狭間の地平線である『少年』)に対して優越であり主格である。循環構造を持つ『歴史』がその他の地平線である『死』~『楽園/奈落』を巡り、また『物語』を描いている。巨大な書籍構造である歴史のループの中にその他の地平線世界が包括される構造がここで想定できるのではないだろうか。
 「歴史」とは地平線に関してChronicleであると同時にまたその本来の意味としてHistoryであり、Geschichteである。それは人類の進化の道程であり、起こった出来事の記録であり、何より実際起こった出来事に関する記述である。
 一方「物語」とは何であるか。Romanとして語られる事が多いがRomanの直訳は「小説」である。またおそらく同じ意味で童話Märchenという言葉がある。物語の最大の性質はフィクション性である。物語とは虚構であり作り話であり、歴史と違って実際に起きたとは限らない。
予言書によって歴史は規定されている。歴史は改竄を許さない―だからChronicleで歴史に反逆した彼等が見つけたのは「物語」である。フィクションであり、だからこそそれは歴史の中に内包されていながら、歴史を裏切って可能性を孕む。
歴史/物語の二項対立はまた『少年が去った後』に物語が来る事からも顕著であると思われる。つまり歴史の枠の中から何らかの逸脱があった後、物語を描くという手段が得られる。しかもその物語の内容は未確定であり、どんな物語も描けるのである。

 ところで、整合性を持った年代記として語られる二十四冊組「黒の予言書」のモチーフに関して、聖書に関係する範囲に二種類それらしいものがある。一つは新約聖書黙示録であり、もう一つは初めて書籍を書くという技術を獲得し、神に見せられた未来の歴史を記述した「神の書記」エノクの記録である。黒の予言書はこの二種類のモチーフが混じったものなのではないかと思う。つまり黒の予言書に記された歴史は啓示として誰かが獲得し、記述したもので、予言書は歴史の予言であると同時に終末を告げる事が目的の黙示録である。終焉、審判、新世界などのモチーフは黙示録においても見て取れるものであり、また未来へ駆ける白馬も勝利した正義の凱旋として黙示録に現れる。
このモチーフから更に推測をすると黒の予言書を書いた著者αは創世記で言う「神の書記」エノク的な立場にある人物だったのではないだろうか。
この推論の根拠は次のようなものである。
黙示録の象徴数は二十四で、これは黙示録の中に出てくる二十四人の長老から来るものであり、ヤコブの十二人の子供=イスラエル十二部族の始祖とイエスの十二人の弟子を示す。つまり当時の聖書的概念における民族の全てと神の言葉を伝道する者の全てであり、全世界の数である。だから全ての歴史を記述した予言書は二十四冊組なのではないだろうか。
 また創世記で書籍の始まりとして記されているのが「歴史の予言書」である事から、予言書を記したのはエノク的人物、神に近しくその啓示を受けた人物ではないかと考察している。聖書においてエノクの書いたこの予言書はその後どこに行ったのか定かでないが、エノクの曾孫がノアであり彼の代に大洪水が起きた事から、ここで一旦失われたという事も考えられよう。予言書は遺跡から発掘されたとされているのもこのためなのではないだろうか。
また黒の予言書の著者が地平線上に不在な理由も、このモデルがエノクであるためだと考える事も可能なのではないだろうか。エノクの昇天と天使メタトロン化という出来事が旧約聖書外典エチオピアエノク書において匂わされており、彼はいなくなる。またこのエノク書にノアのアルビノ的描写があるという話は既にした。予言書の著者が去った後で、その子孫たるノアが歴史を支配しているのであろうか?
 それではアビス(アダム)とノアという存在を基盤に、楽園について再び考えてみようと思う。


[chapter: 3 反逆の試み]


・審判の仕組/死神

 Chronicle及びChronicle2ndにおいて、歴史は冒頭から既に終末に際している。終焉の洪水が訪れ、世界は水没してまた冒頭に戻る。しかしこの流れに私は疑問を抱いた。審判とは果たして本当に洪水であったのだろうか。
物語の結末として訪れたのは洪水(逆再生)である。洪水は破壊でありながら、同時に再生である。荒野に溢れた水は新しい土と栄養をもたらし、荒れた野を肥沃な地に変える。このため洪水とは死であると同時に新しい始まりであり、水を乗り越えた者は「新世界」へ導かれる。ところがこの洪水に際して箱舟、及びノアが存在する事がネックである。何故ならノアの箱舟として語られる創世記の物語の結末は、「もう二度と洪水を起こさない」という神と人類との間の契約であるからだ。洪水によるリセットと再生は聖書でそうであったように、SoundHorizonの世界においても本来洪水は一度だけのはずだったのではないかと私は思う。
ここで私が想定している本来の審判とは澪音の世界に描かれる死神の到来である。この曲はPicoMagicReloadedにおいて「新たなる地平線」に描かれる物語とされるため、この物語は物語として存在するが、未だ起こっていないと考えられる。この曲の語りにおいて「この世界で何人が罪を犯さずに生きられると言うのか」と嘆かれている事は、非常に興味深い―審判において、再生できるのは罪を犯していない罪人のみであるからだ。澪音の審判が来てしまえば生き残る人間はいないのではないかと、この嘆きを見ると推測できる。キリスト教において洪水に続く二度目の審判は黙示録にある最後の審判で、この時罪を持つ魂は全て地獄へ投げ落とされて永遠の裁きに遭い、罪のない者だけが地上に再び現れる楽園で暮らす事ができるとされる。
そこでSH世界で起こるのが、繰り返される洪水と歴史の反復の話である。澪音の世界が本来の審判であるのならば、この終焉の洪水はフェイクである。審判(=澪音)が来る前に罪人達とその歴史を飲み込んで最初からやり直す、「最後」からの逃亡なのではないだろうか。

・黒の教団とノア、及び白鴉

Chronicle世界で歴史が反復しているのが人為的な策略ではないか、と前項で述べたが、その場合その策略を実際に行っているのは誰かと言えばやはり疑わしいのはノアであるだろう。
ノアという人物に関する記述は彼の登場する曲中に案外少ない。ルキアの養父であるからには彼が孤児院の主な運営者であることはおそらく確実なのだが、ノアが教団の中でどの位置にいるのか、その目的は何なのかは不明である。だが「予言者ノア=永遠を手に入れた魔術師」だという旨をRevoが述べていた、という事実がある。またChronicleにおいてノアは救世主と呼ばれる。
ノアが永遠を手に入れた魔術師であるなら、彼は少なくとも不死であるだろう。また彼は救世主であるから、世界が終焉を迎えても彼は少なくとも確実に神によって救われる。にもかかわらずノアは予言書を用いて「何かを」している――彼は一体何を、何のためにしているのか。
まずノアのモデルであると思われる旧約聖書のノアについてであるが、彼は「善い人」「正義の人」として記述されている。洪水で一掃されるべき腐敗した世界の中でノアだけが完全に善であった為に、彼は箱舟を作り新世界へ行く事を許されたのである。また彼は洪水の後神との間に二度と洪水を起こさないという約束を取り付け、血の生贄の契約を結んでいる。人は血を食べてはならず、けものの血と肉を焼いて神に捧げる――これは人と神との間の初めての契約である。アルビノに関する話に既に述べたが、ノアは非常に神に近い存在であり旧約聖書におけるメシア的存在なのである。
にもかかわらず何故ノアはあのような人物であり悪役のように振る舞って歴史を操るか。歴史が反復する書籍であるという事が重要なのではないか、と私は考える。つまりフェイクの終末である洪水によって最後の審判を回避し、再び世界をやり直すためには歴史は同じ道を辿る必要がある。ノアと黒の教団の暗躍は、歴史がルートを外れようとした際にそれを修正する働きを持つのではないだろうか。聖戦と死神では生き延びそうになったアルヴァレスを聖戦の中で殺し、雷神の系譜では蘇った邪神を少年が覚醒して倒す――これがノアの世界を保護する手段なのではないだろうか。
勿論洪水は一度限りという約束と最後の審判が神の意志だとすればノアのこの行為は神への反逆である。ここにノアはアビスと同じような試みをしている事になる。罪人はその罪故に裁かれてしかるべきであるが、この無慈悲な裁きを拒否して荒野に彼らは生を長らえようとする。創世記で語られる原罪の始祖アダムの死と最初の罪人カインの死は共にノアの生まれた時代に起きたとされる――救世主ノアが歴史という魔術を用いて審判を拒絶することで、アダム=アビスもまた背徳の恋物語を反復し、死という終わりに留まらずにエヴァ=エルへの試みを反復するのである。つまり否定的に語られる歴史のループは実は審判による終わりを回避しようという魔術師の不断の試みであるのではないか、と私は考えている。
歴史は改竄を赦さない。
神を裏切る永遠の魔術師の魔法はその手順を一つでも間違えたなら無効となってしまうものなのかもしれない。
しかもこの反復の歴史はただの反復ではない。狭間の地平線について述べた時に触れたが、物語世界を「去る」手段があり、この外部への脱出を行う少年/悪魔に共通しているのは翼の存在である。そして「時風に向かう白鴉」の存在がChronicle2nd全体において語られている――「【白鴉】が目指す地平」は「あの空の向こう」であり、白鴉もまた時の流れに逆らう事で外へ出ていこうとする存在である。鳥の中でもカラス、特に「鴉」がここで名指しされている自体に、白鴉の役割は見て取る事ができる。
洪水の際にノアの箱舟から地表を探しに出た最初の鳥はカラスであり、一説によるとこのカラスはどこかに地上を見つけたために船へ戻らなかった。つまりカラスは新天地を見つける最初の生き物であり、旧約聖書のノアはカラスが去って戻らない事で彼の地上の発見を推測する。また鴉という文字は日本で一般的に見られるハシブト・ハシボソガラス(CROW)よりも西洋で主流であるワタリガラス(RAVEN)を連想させる(例えばポーの小説の表題「大鴉」はワタリガラス(RAVEN)であるがこれはやはり文字のイメージとして大烏ではなく大鴉が相応しい)。ワタリガラス北欧神話に主神オーディンの従者であり彼を象徴する思考のフギン/記憶のムニンとして現れてもおり、これは世界中を飛び回ってオーディンに情報を伝える鳥である。大型の渡り鳥であるワタリガラスは長距離を飛行するのに適しているという事もあり、イレギュラーの白いワタリガラスが歴史を巡り新天地を見つけだすという構造を、ノアは歴史の中に意図的に織り込んだのではないかと思う。何故なら黒の教団もノアも、白い鴉の飛行を遮ることは一切しないからである(白鴉を唯一遮るのは海の魔女セイレーンの嵐であり、この曲中で語り手は「歴史」の愛を否定している)。
ノアは歴史を繰り返す。この歴史の枠を例えば箱舟として見るならば白鴉は新天地を探して飛んでいくカラスそのものである。
勿論白鴉による新天地発見はそう簡単な挑戦ではないだろう。SHにおいて空を飛ぶ鳥は概ね同時に墜ちるものであり、翼をもがれるものである。地に堕ちて血に塗れた時彼等は挑戦者から生贄へ切り替わる可能性もある―けものの血を流す事、火で灼く事はノアと神との間の贖罪の契約であるのだから。
白鴉が去って新天地を得るのは非常に難しい――白鴉は単一ではないようで、翼を得た「少年」達はそれを失ってもまた子供達へその意思を継いで、試みを繰り返す。それでも歴史は有限である以上、挑戦の機会も限られる。
だが、他でもなく歴史がループしているという事実が、同時に白鴉の挑戦を無限に可能にしているのだ。歴史が終末へ至ってもどの翼も外へ至れなければ最初へ戻ればいいのである。ここでノアによる洪水の発生/審判回避と白鴉の新天地探索は噛み合っている。そもそも孤児院で養父として振る舞いながら、ノアは白鴉、またその可能性のあるものを育てている可能性もあるのである。歴史は繰り返すという言葉通り不死のノアがルキアの前に〈反逆者の父親(ルキウス)〉や〈逃亡者の母親(イリア)〉をも育てている可能性は高い。
 また白鴉の側において歴史の反復性、白鴉という存在の親から子への継承が見て取れる例についても少し述べる。父親ルキウスと娘ルキアである。
ルキウスという名前は一時代非常に一般的な名であったが、それは古代ローマの時代であり、この名前が汎用性を持ったのは教皇などの宗教関係者を除いては遅くも3世紀頃までであった。またこの名は名前のバリエーションが少なかった古代ローマで非常に多く使われており、複数の名を持つ中でただ「L」と略されるほどに汎用されていた。
一方ルキアという名であるが、これはラテン語の文法法則の中にある、共通語幹を持つ場合の男性名~us/女性名~iaまたは~aというルールを鑑みるにルキウスの女性型である事はほぼ間違いがないだろう。ちなみにルチアと読む時は古代~中世イタリアである程度浸透した名であったらしい。ルキウス/ルキアはどちらも語源はLux光である。ラテン語名は接尾語によって意味が変わり、ルシフェル/ルシファー(光を掲げる者)も同じ語源を持つ。これは明けの明星をも差す言葉である。
「Lucius」は人名であると同時に一つの古い称号であり、血族的に受け継がれたものなのではないだろうか。父と母を失った子供が男子ならばルキウスであり女子ならばルキアになる。白鴉が多存在を包括する概念的存在ならば、その一部である彼らもまた個体でなくても良く、寧ろ不死のノアに対して連続性を持つために一群の血族である方が、ノアが白鴉を育成し、白鴉の挑戦を繰り返させるに当たって効率が良いと思われる。
では白鴉の試みによって、彼らはどこへ至ろうとしているのか。白鴉が辿りつく空の向こう、新天地とは何なのか。

・逸脱へ至る物語

ノア=永遠を手に入れた魔術師であるならば、彼は歴史の反復を行使する前に一つの試みを自ら行っている。魔術師は不滅を求めて天へと階段を駆け上がった――この結果が成功であれ失敗であれ、ノアの求めるもの、目指すべき場所は階段の先にあると考えられる。しかし階段を上りながら魔術師は同時に堕ちる。この上昇/下降の同時性は堕落であり、また同時に物理的落下でもあるのではないかと私は考えている。ノアが救世主でありメシアである事とこれは関係しているのではないだろうか――キリストも聖書の中でまた冥府へ降りているのだ。これは死者の国につなぎ止められていた祖先の解放であり、メシアによって原罪が拭われていなかった時代の人々を救うための行為である。ノアは階段を上りながら、また罪人達を救うために堕ちていったのではないだろうか。魔術師の禁断の行為は彼の純粋さ故によって起こったのである。
一方オルフェウスもまたエウリュディケを取り戻すために階段を駆け上がるという行為を行っているが、彼の死者を救い出そうという試みは、神的要素を持つ(=アルビノの)ラフレンツェの呪いによって失敗する。
禁断である奈落へのアクセスが行われ、死者を取り戻そうと試みられる時、彼らが求めるのは死の克服であり征服である。
奈落へのアクセスという形式において、Thanatos、Lost、Elysion、Roman、Moira、Marchenは全てこれを持っている。生まれる前に死んだ骸と死んでなお生きる骸は共に生と死の狭間にあり、彼らの領域たる黄昏には生の扉と死の扉があり、壮麗にして寂れた回廊は骸の沈んだ水底である。その空間でエルとアビスは出会って恋をする。井戸の底に潜む異土=冥府の統治者はホレであり冥王でもあり、冥府の住人は生者の名を叫ぼうとも水底に閉じ込められて最早出られない。物語はその中で繰り返し奈落に接近し、死者と生者は互いにその境界を越えようと試みる。
彼らが生と死の境界の消滅を望むのであれば、必要なのは死のない世界である。死の不在は今では幻想でしかないが、かつては実在していた――エデンに死はなかった。
つまり死の克服、死の征服、そして奈落へ手を伸ばす物語の努力は最終的にエデンの獲得という形式を以って完成する戦いなのである。
黙示録は最後の審判の後で地上に楽園が再来すると述べている。ところが少なくともノアにとって、最後の審判→楽園という道筋であってはならないのだと私は考える。楽園を獲得するのならば最後の審判を回避して獲得しなければならない、審判は全ての人が罪人であるが故にどうあっても通ってはいけない道である。
そこで白鴉が外へ飛んでいく。世界が「地平線」であり中世キリスト教の盤状構造を取っているのなら、地平線を飛び出したその外側に神の手が未だ整地しない荒れ地がある可能性がある。この救済方法は物語世界が地平線であるために可能であり、「物語(ロマン)の翼」は書籍構造の世界を飛び出し、美しい荒野を目指して飛行する。

神に反逆し、自由と自立を得た人間は無数の犠牲を繰り返しながら造物主の手の外側に自力でエデンを獲得する挑戦を繰り返す。SoundHorizonの諸作品の中で母性が非常にクローズアップされながら父性がしばしば不在である理由は明言された事があまりないが、この楽園に対する世界の試みに関連して一つの理由付けをすることが可能である。
父性は神であり抗うべき作者であり、これに背を向けて抗っている最中だからこそ父性は不在であるか、存在していても母性と比べて登場が稀である―。

勿論これは推測でしかなく、Revo本人がそれを意図しているかどうか確認する事はできない。
しかし多くの死と悲劇的結末を繰り返す物語世界がそれによって成長を試み、いつか楽園を獲得する可能性を孕んでいると考えた時、どんな悲惨な結末も単なる悲劇に留まらないのではないだろうか。