ここは浅瀬です。

主にうわ言を述べる人のうわ言用ブログ

遅咲きの花(かけ隼雑感)

本日から大阪公演も始まりもう残すところ3日となりました「駆けはやぶさひと大和」、皆さんはもうご覧になりましたでしょうか。
残念ながらチケットはもうほぼないので(こんなに嬉しいフレーズがあるだろうか)当日券チャレンジをしていただくかご予定のない方はDVDを是非!今ならスペシャル版がネットで予約できます!

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一作目の「もののふ白き虎」初日からずっと見ていたシリーズが終わってしまうことがいかにも寂しく、けれど終わりに相応しい晴れがましい舞台です。

大千秋楽を迎える前ながら本編、そして前作を合わせて考えていたことを一旦まとめておきたく。
あっもし「もののふ白き虎」「瞑るおおかみ黒き鴨」をまだご覧になっていないようでしたら是非先にご覧ください!!!!

※今回は全体の感想というより時系列整理と斎藤一というひとの話です。登ちゃんの話はまた別途したい…。

戊辰戦争終結です…!」は一体いつどこでの話なのか、斎藤一があの時点で刀をなぜ握っているのかをつむ鴨の時から考えていたんですが、今回かなり合間の情報が追加されたので何となく流れが見えたかなと。

まずざっくり日時が分かっている流れは以下の通り。(新暦です)

会津降伏1868年11月6日
甲鉄奪取作戦(宮古島海戦)1869年5月6日
土方歳三戦死1869年6月20日
戊辰戦争終結1869年6月27日

鉄之助が一度目に訪ねてきたのは会津降伏後、また二度目に訪ねてくるのは宮古島海戦の直前に脱走した後(3月と言っていますが旧暦カウントなので新暦だと4月末~5月頭です)。

一度目に訪ねてきた場所はおそらく越後高田。1869年1月以降ここが会津藩士の謹慎所です(東本願寺高田別院)。
会津だと鉄之助が言っていたのをさっくり忘れていました。越後高田に移動させられる前の塩川村謹慎なので時期が1868年末になります。
斎藤は(史実上は変名で)会津藩士として一緒に謹慎していました。それなりに監視もあったでしょうから「なんでここ入れんだ?」はもっともなコメント。
この時勝から土方はまだ戦っていることを初めて知らされます。

駆け去っていく斎藤がその後どうしたのか?ですが、ここでつむ鴨の「最後まで戦っていたのは土方ともう一人、お前だよ」という大久保の話。
謹慎所から斎藤一は脱走している、のだそうです。(越後高田からですが、記録は会津藩士記述の「幽囚録」にあるとのこと)

「まだ戦いは終わっていない」と知って脱走した斎藤が目指すとしたら北でしょう。徒歩だとしても単純に120時間歩けば歩いていける限界、つまり本州北端まで行けるようですから、鉄之助が二度目に会いに来る頃、つまり5月には既に近くにいるはずです。
でも彼は函館には渡らない。
鉄之助が懇願してもそれは拒否されます。では彼はどこにいるのか。

甲鉄艦隊奪取作戦の頃、新政府軍は青森に集結していました。だとしたら彼はそこでたった一人の戦争をしていたのではないか、というのは推論ですが、大久保の話を裏付けもします。
伊藤博文(劇中ではほぼ俊輔ですが)が「俺斎藤苦手!」と公言しているのですが、劇中ここの接点が全然ないので、あり得るとしたら青森近辺でひとりゲリラ戦をしていた斎藤に襲撃されたトラウマ…というのが案外ことの流れがすっきりするかなあと。

斎藤が海峡を挟んだ向こうでゲリラ戦をしていることを鉄之助から聞いて、島田が戦争の終わりを告げにくる、というのがつむ鴨のオープニングではないでしょうか。

なぜ函館に来ないのか、については、幾つも理由があるのだとは思います。
「国のひとつも持っていかなければ謝れない」でも会津は守れなかった。
「生きろと命じられた」命令違反です。
脱走し敵に付いた辰之助については切腹もクソもないだろと斎藤は言いますが、それは誠を捨てていればこそでしょう。捨てていないのならばそれを裏切れない。守れなきゃ切腹、は武士とも言いがたい出自の彼らの「士道」であり誇りのかたちなのかもしれません。

それを飛び越えて、私には西郷隆盛の言葉が思い出されてなりません。
「あいつらの泣き顔は見とうない、俺が生きてきて一番しちゃいけんことだ」
顔を見れば迷う、と。

土方は泣き出してからずっと、近藤に背を向けていました。
沖田は最後まで笑って死んでいき、鉄之助はその背後で、彼が息絶えて初めて泣き声をあげます。
そこには確かに愛情があるから、泣いてしまえば迷ってしまう。迷って生き延びられればそれでいいのです。でも先がないのなら、見ては、見せてはいけない。

だって泣くでしょあの斎藤一は…。
そこに行かない、それもとても勇気のいる愛情でしょう。

斎藤は「生きろ」と言った土方の顔を見られなかった、そのまま二度と顔を見ずに彼は生きていく。
彼が明治10年まで迷い続けていたのは、行かないことを選んだ後悔なのかもしれません。
行けば土方は喜んだのかもしれない。助けられたのかもしれない。それは答えの出ない問題です。
「死んだ奴のことは分かんねえ!」と、それが事実だとしてもそう簡単に言い切れるわけがない。

「生きるために笑ってみろ」という土方の言葉はきっとその後悔を打ち晴らしたのでしょう。

つむ鴨の最後、顔を上げて、まっすぐ歩いていく斎藤の背中を見守っている土方の顔はとてもきれいな笑顔だった。
「お前のお陰で楽しめた」と最後の最後に言った土方の曇りない笑顔です。自分ではうまく笑えなかったと言うけれど、斎藤から見たらあんなにきれいに笑っていたのです。それが最後に記憶に残るなら、函館に行けなかったことはきっと間違いではなかったのでしょう。
「俺の人生勝ちだぞ」と近藤が言ったように、きっと土方も胸を張って言うのです。だって楽しかったのだから。

今シリーズは「時の流れに呑まれた物語」であり、その大いなるうねりの中で人の手はあまりに小さく、たった幾つか握りしめて守ろうとしたものさえ時としてままならない。
戊辰で戦争を終わりにと亡き師に誓った桂は西南戦争の最中に病で亡くなり、無論その後も戦争は止みません。「大久保さんを頼む」と村田に委ねられた大山ですが、その大久保は西南戦争翌年に暗殺されてしまいます。「新しい時代は汚さず作ると決めた」伊藤すら、やがてハルビンで凶弾に倒れる。

函館を越えて生き延びた横倉も、鉄之助も、西南の年にはもういません。
横倉は僅か一年後に竜馬暗殺伊東甲子太郎暗殺の罪を問われて収監され、獄死します。
鉄之助は病死。まるで沖田の人生をなぞるように、刀を握っては死ねない。

けれど、「死は好むべきにあらず、また憎むべきにあらず」と吉田松陰は言い残しました。
桂が唄う彼の遺言は現代語訳をすれば以下の通りです。

゛死は好むものではなく、また憎むべきでもない。世の中には生きながらえながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなしとげる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり私の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、要するになすべきことをなす心構えこそが大切なのだ。゛

敵味方の別なく、そのように生きたのだと思えてなりません。
それこそがまほろばだと。

多くの犠牲を払ったとしても、その意地と誇りが、いつか誰かを生かすのです。
歴史の波に沈んでいくはずだった物語を、中村登の筆が生かし、悲しい終わりなど否定するようにただ美しい日々を愛する人に語り聞かせたように。
あらゆる手に生きろと背を押され、たったひとり残った斎藤がやがて長い悲しみの中に沈んだ貞吉の背を押すように。

1877年、西南戦争でようやく花開いた遅咲きの蒼は、母成峠で突きつけられた「お前にとっての新撰組」の答えでしょう。
もう新撰組は他になく、彼の上に咲く花は桜ですらないのかもしれない。それでもその背には、きっと誠の一字があります。
結成当初、それこそ頂点であった始まりからそこにいた斎藤一が、一番最後に新撰組になるのです。そしてこの先の長い人生を賭けて、たったひとりで「勝ち」を証明していく。

途方もなく険しいその道は、けれど雨上がりの眩しさと、きっとその背を見ている沢山の誠に飾られた花道でしょう。