ここは浅瀬です。

主にうわ言を述べる人のうわ言用ブログ

たかが1500gの希望:戦極凌馬に寄せて

わたしの愛した科学者が死んだのは、8月の終わりのよく晴れた日曜の朝のことだった。

アスファルトの暑さを、雲ひとつない空の眩しさを覚えている。涙は一つも出なくて、なぜか無性に笑えて仕方がなかった、なんて事も。
プロフェッサー、戦極凌馬。
ある天才の死の季節に寄せる、これは取るに足らないたわごとだ。
 
マッドサイエンティスト枠として一緒くたに扱われがちだけれども、例えば檀黎斗のようなポジションには、彼は決して着くことがない。
黎斗が「神」になり得るのは彼が諸悪の根源であるからである。作った側に打倒できない問題はない。マッチポンプの災害的天才。
勿論それだって飛び抜けた才能と鉄の信念なしには決してたどり着けない境地であるし、それは天才に一歩及ばず、研究の盗作という悪意の形で問題を引き起こした蛮野博士にもまた決して開かれない場所である。
なのでこの辺りを雑にまとめてマッドサイエンティストと括る層のことは本当に分からない。今すぐSNSを閉じて作品をちゃんと見た方がいい、絶対。天才も多種多様だし、それが面白いので勿体無い。
 
鎧武という作品の大前提、それは外からの侵略=理由なき悪意が諸問題の根源であるということだ。
マッチポンプ型は神にすらなれるが、理由なき悪意の世界ではどのような答えを出そうとも神には至らない。100点満点が不可能だからだ。
突然日曜の朝から外れるが、アベンジャーズシビルウォーを見てほしい。
宇宙人の侵略に晒されたニューヨークやロンドンを守って戦ったヒーローが、その戦闘に巻き込まれて死んだ数十人の死を責められる。そんな馬鹿な、それを責めるのか、と思うほどの苛烈な戦いだった。寧ろよくそれだけで済んだものだ、人数の少なさに驚く気持ちさえある。
それでもその戦いで大切な人を亡くした人々には、関係がないのだろう。
自ら種を蒔き、綿密に手を掛けて育てた黎斗でさえ、その過程で決して取り戻せない死を生み出した。
まして外的侵略生物、高い感染性と神出鬼没さを誇る怪物の森ヘルヘイム。これに相対する時点で大円団の救済エンドはご都合主義の奇跡でもない限り不可能である。
ゾンビ映画ばりに絶望的なこの状況は、しかしたった1人にひっくり返される。
ご都合主義の奇跡によって?
その奇跡の始まりは、しかしライダーシステムの誕生-戦極ドライバーに端を発している。
 
鎧武は弱者の物語である、と思う。
徹底的に強者と殴り合うことのないヒーローものだ。モルモットのように力を与えられたダンスチーム、それを応援したかと思えばあっさりと手のひらを返す街の人々、それを管理するユグドラシルは一見強者のようであるが、世界を覆う組織のほんの一端に過ぎない。
大企業でありながら、最重要拠点となりうる沢芽市をまだ十分青二才のうちだろう呉島貴虎1人に丸投げしているユグドラシルの思惑を、犠牲の山羊だとわたしは思った。
呉島家の長男だ、たとえ何が起きても責任は押し付けられる。命すら危険な場所に出てきたがらなかった無数の手によって祭り上げられた張りぼての神様だ。ましてやその率いる組織など、トカゲの尻尾でしかなかっただろう。
強者がいたならばもっと話はシンプルだった。ユグドラシルがヘルヘイムをダシに世界を手に入れようとしているなら、もしくはヘルヘイムの奥に悪意を持った王がいたならば。誰かを殴り倒せば解決する話では、しかしなかった。
 
1/7の救済を許せないと叫ぶ、絋汰の感情は分かる。けれど許さないならどうだというのか。その時点で絋汰に7/7を救済する手段などなかったのに。
許さないと、叫ぶことは簡単だ。
けれど、10億。10億の救済。神に決してなれない人の手で成すには十分とんでもない。
映画ディープインパクトアメリカが彗星の衝突から国民を守るために用意したシェルターは100万人を収容できた。100万/3億。大体0.3パーセント。世界規模なら一体どこまでこのパーセンテージが下がるのか、そう1/7の途方もなさを噛みしめる。
後に知ることとなったユグドラシルの養護施設を、戦極凌馬の生まれ出た場所を見た時に、絋汰と凌馬の間の断絶を思って仄暗い気持ちになった。選別され、おそらく多くが死んだだろ子供たちの地獄。誰も6/7を救わなかった。
なぜ許せないのか、もしかすると凌馬には分からなかったのではないのだろうか。
 
沢芽市民がチームバロンに投げかけた台詞がわたしは鎧武の軋轢の根源であると思っている。
「私たちの平和な街を返して!」
おぞましい。その台詞を戒斗に向けることが、おぞましい。
今の沢芽が作られるにあたり、実家の工場を失い、父が心を壊し、母がおそらく服薬自殺、そして庭で首を吊った父を見つけた時戒斗は小学生だった。
その責任は市民にない-とはいえ自分を弱者と信じる者は自分を害するものにどこまでも無自覚に残酷である。大衆性という傲慢。何を踏みつぶした上に立っているかも自覚しない。
理由なき悪意はヘルヘイムを説明する概念であるが、「大衆」もまた理由なき悪意である。
行き詰まりの世界で、戒斗はきっとヒーローになろうとした。彼の目指した強者とは、つまりヒーローだ。
 
もう一度アベンジャーズの話をしよう。
絶え間ない宇宙からの侵略に、彼等ヒーローはいつまで立ち向かえばいいのだろう?人は衰え、いつか死ぬ。不変のまま人を守るなどそんなものは神だ。アイアンマンことトニー・スターク(彼も天才科学者である)はPTSDで苦しんだ果てに自立型ヒーローマシンを作ってみたりもしたのだが、その顛末はアベンジャーズエイジオブウルトロンを見ていただきたい。
ヒーローに全ての責任を吹っかける行為は、非常に脆いのだ。彼等は神ではないのだから。
戒斗の選んだ道は修羅の道行きであり、それはいつしか道を踏み違えていく。
一方、凌馬は「神様」を作ろうとした。
呉島貴虎、彼も望んでヒーローたらんとした男である。
正直絶望的に噛み合わない2人だっただろう。貴虎はノブレスオブリージュを標榜している。世界に対して負った義務。ヒーローを目指すが、それは大衆のための、大衆に消費されるヒーローである。たった1人のための神様になどなってくれる男ではない。
一方で、貴虎の倫理観は真っ当である。1/7の選択はあまりに重い、だから6/7をなぜ救えない、という顔をしてしまう。貴虎もまた凌馬に、正確に言うならば凌馬の天才性に神を望んでいる。ご都合主義のハッピーエンドさえ作れるのではないかと。
研究室でかつて2人は出会ったけれど、そこから全てが始まったのだけれど、結局のところ互いに勝手な偶像を見ているばかりで、本当に出会ったことなど一度もなかったのかもしれない。
 
それでもドライバーは作られ、世に放たれた。
 
夏の映画を見ていて思ったのは、これは新世代の兵器だ、ということだ。
使い方を間違えればただの火種。時に人を破滅させ、そして結局世界を救った装置。
鎧武が大団円を迎えるために必要だったのはもしかしたら非常にシンプルなことだった。分かり合い、手を取り合い、誰もがヒーローになること。
10億が力を手にするには、人類全てが、その意志が進化-変身することが絶対条件だった。そうでなくてはフェムシンムの二の舞だろうし、もしかすればその10億が手を取り合って戦い、ドライバーを共有することで70億が生き延びることすらできたのではないか。
残念ながらそれは叶わない夢だった。
ヘルヘイムの出現は進化した種への試練だったのだろうか。だとすれば鎧武の結末は長い保留マークにすぎない。
いつか、ヘルヘイムはまた地球に現れるかもしれない。神となった絋汰はいつまで絋汰でいられるか、その保証などどこにもないのだから。
(同じように不死の道に踏み込んだ剣崎真という男の道行きを、是非読んでいただきたい。ノベライズ仮面ライダー剣、とてもお勧めです)
いつか再び試練のその日が来るまでに、人類は進化をしなければならない。最終回で、奇しくも光実が一歩踏み出したそのように。
 
人は進化の際に、牙も毒も速く走る足も捨てた。代わりに得たその特性は知性である。
ヘルヘイムという巨大な悪意を前に、力を手にした人々がどう立ち向かおうとしたかは千差万別。けれどその立ち向かう力が生まれなければ、あの日曜朝は一年間ただ飲み込まれていく世界を映すゾンビ映画にしかならなかったのだ。
たった一個体の脳髄が、絶望的なワンサイドゲームをひっくり返した。
立ち向かうことのできる領域に、人類を押し出した。
人類が原始的な力を捨てて選んだ進化の最先端。知性による革命を、わたしは心底眩しく、輝かしく思う。
 
8月31日の朝、戦極凌馬はコンクリートの地面に向けて落ちていった。
抵抗も、なかった。ただ目を閉じて、全てを投げ出すように、投げ出されていった。
一度は手にした黄金の果実を凌馬が使わなかったのは、彼らしい、と思う。
都合のいい奇跡なんかは、信用ならない。降って湧いた僥倖はいつ裏切るかも分からないものだ。ガラスケースの果実を解析して、理解して、完全に制御して、もしその先があったとするならば。
戦極ドライバーのコンセプトは生物の規範を大きく書き換える。遠い未来を描いたSFだって基本は経口摂食だ、それは動物という種の根幹であり、それゆえに人類がどこまで進化しても動物的な側面として足を引っ張るとも言える。ドライバーからヘルヘイムの実を摂取し、食さえも必要としなくなるという、あまりに思いきった革新。
たかだか1500g、人体の2パーセントの脳髄が見せる無限の可能性を信じていたかった。
 
希望が砕けた朝が来る。